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「変わらぬ味と距離感」  作者: るんたま
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第一話 至高の味

 その一皿は、非の打ち所がなかった。


 白い皿の上に、整然と配置された色彩。

 温度も、香りも、盛り付けも、すべてが計算されている。


 隣には細長いグラス。

 透明な酒が、静かに光を受けていた。


「本日は、こちらのペアリングでご用意しております」


 柔らかな声が、空気を乱さないように届く。


 綾乃は小さく頷き、グラスを手に取った。


 香りを確かめる。

 ほんのりと甘く、果実のように軽い。


 一口含む。


 舌の上を滑るように広がり、すぐに輪郭を整える。


「……美味しい」


 自然に言葉が出た。



 大学を卒業して、広告代理店に入ったとき。


 綾乃には、何が正しいのか分からなかった。


 仕事は曖昧で、求められるものも掴めない。

 提案は通らず、資料は何度も差し戻された。


 終電を逃す夜も、珍しくなかった。


 それでも、続けた。


 どうすれば通るのか。

 何が求められているのか。


 それだけを、繰り返し考えた。



 やがて、分かってくる。


 求められている形。

 通るための構造。


 それを外さなければ、結果はついてくる。


 初めて提案が通った日、綾乃ははっきりと覚えている。


 胸の奥が、静かに満たされる感覚。


 ——これでいい。


 そう思えた。



 それから先は、迷いが減っていった。


 外さない選択をする。

 求められるものを見極める。


 大きな失敗は避け、安定して結果を出す。


 評価は、少しずつ積み上がった。



 三十歳を過ぎた頃には、ようやく思えるようになった。


 ——自分のやり方で、やっていける。



 判断に迷うことは、ほとんどない。


 何を選べばいいかは、分かる。


 それは、仕事だけではなかった。



 店を選ぶときも同じだった。


 評価の高い店。

 間違いのないコース。


 整えられた体験。


 それを選べば、外れることはない。



 だから、今目の前にあるこの一皿も。


 正しい。


 美味しい。


 満足している。



 そう言える。



 料理に手を伸ばす。


 火入れは適切で、素材の輪郭を損なわない。

 ソースは控えめに添えられ、全体の調和を崩さない。


 酒を一口。


 料理に戻る。


 意図された通りに、互いを引き立てる。



 完成されている。



 そのはずだった。



 ふと、手が止まる。



 ほんの一瞬。



 それでも、その感覚は思ったよりもはっきりしていた。



 グラスを持ったまま、視線を少し落とす。


 店内は落ち着いている。


 照明は柔らかく、音は抑えられている。


 どこにも、無駄がない。



 自分も、その中にきちんと収まっている。



 ——何も問題はない。



 そう思う。



 それでも。



 胸の奥に、何かが残る。



 小さく、引っかかるような感覚。



 理由は、分からない。



 もう一口、料理を口に運ぶ。



 美味しい。



 間違いなく、美味しい。



 それは、変わらない。



 それなのに。



 どこか、静かに距離があるような気がした。



 食事を終え、店を出る。



 夜の空気が、少しだけ冷たい。



 人の流れは、途切れない。


 同じように店を出た人たちが、次の場所へ向かっている。



 綾乃も、その流れの中にいる。



 いつも通りの帰り道。



 スマートフォンを取り出す。


 投稿画面を開く。



 言葉は、すぐに浮かぶはずだった。



 ——美味しかった。



 それを書けば、それでいい。



 はずなのに。



 指は、動かなかった。



 数秒、画面を見つめる。



 理由は分からない。



 何かが足りないのか。

 それとも、何かが余計なのか。



 どちらも、うまく掴めない。



 綾乃は、静かに画面を閉じた。



 歩き出す。



 さっきまでいた店の灯りが、背中の方で滲んでいる。



 食事は、確かに良かった。


 非の打ち所はない。



 それでも。



 胸の奥に、何かが残っている。



 消えるほどではない。

 だが、無視できるほどでもない。



 信号待ちで立ち止まる。



 夜の街が、静かに動いている。



 光が流れ、人が流れ、音が流れる。



 その中で、綾乃はぼんやりと立っていた。



 言葉にはならない。



 ただ、どこかに小さな引っかかりがある。



 それが何なのかは、まだ分からない。



 信号が変わる。



 人の流れが、また動き出す。



 綾乃も、その中に足を踏み出した。



 違和感は、小さい。



 けれど、確かにそこにある。



 それが何を意味するのか。


 このときの彼女には、まだ分からなかった。

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