天と地
プロローグ:天と地
朝の光が障子を白く染める。ししおどしの雅な音がカツンと響いて穏やかな朝の空気を浴びて目を覚ました。
身だしなみを整え、顔を洗い、椿の油で髪を整え、都市を支配する瑞獣夜社のロゴが刻まれた紋付の衣服を着こなす。……のを全て使用人が行っていく。
葛葉明継はただされるがままだった。何をせずとも彼女達は従事し、強者の証である幾つもの尻尾も媚びを売るためだけに振っていく。将来の九尾へ媚びることに、誰一人として疑問を抱かない。
「いかがでしょうか?」
「あーうん、別になんだっていいよ」
鏡を見せられて曖昧な返事をした。母譲りの金の瞳が眩く光輝を揺らす。父譲りの銀の髪は今日も美しく纏め結ばれていた。
……朝餉もまた、いつも以上に贅を尽くしていた。オーガニック大トロの炙り寿司に非クローン技術松茸の吸い物。外郭から採取された人喰い鰻の串焼き。白米。本来であれば禁忌とされる他都市からの輸入菓子。他多種。
……を毒味役が食べてから冷め切ったものを口にしていく。
食事が終わる直前、襖が開き、父と目が合った。
冷徹な眼差し。銀の髪。瑞獣夜社のトップであることを示す金の紋。そして、黒い炎の如き九つの尾。
だが恐れることはない。
「父上、今日は家にいらっしゃったのですね。……それなら待てばよかった。たまには一緒に朝食ぐらい食べたかったですよ」
アキツグはすぐに深く頭を下げつつも、少し子供めいたわがままを口にした。
「……今日はお前の、尾の儀式があるだろう。お前は今日から……尾憑きになるんだ。それも、誰よりも強く尊い九つの尾を持つことになるだろう」
そうだ。今日が尾の儀式の日だった。ブシドーを身に宿し、尾を得る日だった。
尾の数は超えられない強さであり階級であり、今日が今後の生き方全てを左右するだろう。だが、アキツグはこれも恐れることなどなかった。
「俺は父上の血を継いでおります。亡き母上の血を継いでおります。俺は立派な九尾となるためにこれまで生きてきました。努力が、実る時がきただけです」
アキツグは父上の前だけでは生真面目に畏まった。日頃の態度を耳にしていたから、父上は少し呆れるように鼻で笑った。
「威張ってもよい。驕ったってよい。それこそが強者の特権だからね。しかし力ある者として、その力は弱き者のために振るうんだよ。アキツグ。この街を守る力がお前にはあるはずだから」
父上は、葛葉道玄はジッと屋敷の外を見つめ諭すようにそうおっしゃった。
つられるように同じ場所を見つめる。
瑞獣夜社の管轄都市、その最上層区画は多くの尾を持つ者とその親族にだけ許された美しい都そのものだ。
だが下層は? 見下ろすと無秩序に長屋や屋敷が連なり、水道は入り組み、電線が絡み合い、まるで蜘蛛の巣のようだった。治安も良くはない。九殺衆なんて名前で指名手配を受けている都市に仇成す者もいる。
では都市の外は? 悍ましい怪物ばかりが棲みつく黒い海が広がり、片や空の果てを巨大な銀の霊峰が貫いている。人類の生存圏などとっくに限られている。
だからこそ、アキツグは眦を決した。人一倍プライドは高いが、それはただ傲慢なだけではなかった。
「はい。心得ております。九尾となった暁には父上の子として、選ばれた血筋の物として、決して恥じぬように戦い続けましょう。外の野蛮人、怪物、不敬な反逆者、その全てを処して、健全な民を護る都市の尾となる所存です」
その言葉に父上は小さく微笑んで、バシンと一喝するように背を叩いた。
「ならば夕餉はもっと豪華にしなければな。めでたい日には鯛を――」
父上の渾身のギャグを笑うことはできないから、アキツグは逃げるように屋敷を後にした。
朱に塗られた橋が天に伸びている。最上層の区域において、クズノハ家ははっきり言って、頂点のなかの頂点だった。
ゆえに、歩けば誰もが道を譲る。野郎共は妬ましく睨みながらも何もできず跪いていく。――気分がいい。
「アキツグ様、おはようございます」
「本日もお美しいですね」
「尾の儀、お祝い申し上げます」
鈴を転がすような声が左右から飛ぶ。腕へ自然と腕が絡み、柔らかな尾が衣の上から擦り寄せられる。香の匂いと共に幾本もの尾が機嫌を窺うように揺れ、肩や腕へ甘えるように触れてきた。
「儀式が終わりましたら、ぜひお祝いをご一緒させてくださいませ」
「今日は儀式のみで下校できますから、私のお屋敷で宴の予定がありますの。アキツグ様、もしよろしければ――――」
尻尾にとどまらず、背に柔らかな胸の感触さえも押し付けられる。
――気分がいい。皆可愛い子ばかりだったし、柔らかな尻尾も胸も嫌いなわけないし。けどそんな両手に花な状態を気にする様子も見せないのが格好いい男だと思っていたから、アキツグは飄々とした態度で透かした笑みを向けた。
「悪い悪い。今日は急いでるんだ。また今度な」
軽く応えるだけで、彼女たちは頬を染め、嬉しそうに一歩退いていく。
誰もが道を譲る。誰もが敬う。そうでない者は。
「どけ。アキツグ様がお通りであることが理解できないのか? 七尾風情が」
路傍の小石のように退かされるのみだった。
橋を渡り切ると、巨大な鳥居が姿を現す。祇壬泰卜院の巨大な校門であった。
既に多くの学生が祭祀場に集まっていた。誰もが晴れ着に身を包み、緊張と期待を胸に今日という日を待っている。
アキツグは悠然とした態度で席に着いた。
ただそれだけで視線が集まる。羨望。憧憬。嫉妬。情欲。畏怖。
そのすべてを浴びながら、アキツグは口元だけで笑った。プレッシャーがないわけではない。だが強者とは、笑うものだ。
強き者が余裕のない振る舞いをすれば皆が不安がるのだから。だから笑う。だから驕る。……そのほうが格好いい。
相応に努力もしてきた。剣も学問も礼法も、誰よりも積み重ねてきた。生まれだけでここに立っているわけではない。今日という日は、その全てが報われる日でしかない。
「葛葉明継」
儀式殿の奥から名を呼ばれる。場の空気が張り詰めた。
学生たちは左右へ分かれ、一筋の道を作る。退かないのは目の前を照らし輝く太陽だけであった。
瑞獣夜社の神官殿が透き通った輝きの結晶を手渡す。――≪殺生石≫だ。握り締めると、肉体はブシドーを受け入れるために、感情を動力とする新たな血の流れを形成していく。
鋭い痛みが頬を撫でて、アキツグは僅かに目を細めた。成獣の証ともいえる亀裂が瞳から頬にかけて刻まれた痛みだった。
全身の血脈が開いていく。目の奥が焼けるように、生命の奔流が全身をめぐっていく。
≪殺生石≫を通じてブシドーが、あらゆる力の根源ともいえる魂が流れ込んできている証拠だ。
この特異点こそが瑞獣夜社だ。この尋常ならざる御業こそ瑞獣夜社だ。
もっとも、その力は平等ではない。
生えた尾の本数こそが、与えられたブシドーの格を示しているから。
――すでに隣では尾を生やし、狂喜する者、嘆く者が存在していた。
八尾、六尾、七尾、六尾……。
悲しいが七つの尾さえない者はこの都市の最上区画にはいられない。
ずるずると引きずられ、籠に押し込まれていくのが見えた。
彼らがじっと睨みつけてくる。
アキツグは見て見ぬフリをして、自分の体を巡るブシドーの力を受け入れ続ける。途方もない痛みが血肉を裂いていく。どろどろと血の涙が流れていくと、周囲がどよめていくのが理解できた。
……ここまでの肉体負荷は前例がない。
心臓の拍動は強く、強く打ち付ける。双眸が焼けるように痛む。
それでも飄々とした笑みを浮かべると、周囲は大丈夫だと判断してか、見届けてくれた。
やがて眼も開けられぬほどの金色の光が全身を包み込んで――――声が聞こえた。
『嗚呼、こうやってオレ達を呼び出してたのか?』
ギィギィと脳に直接刻まれる耳鳴りと粗暴な声。ブシドーが完全に同調したらしい。ようやく全身を包み込むような痛みがなくなって、アキツグはゆっくりと安堵のため息をついて立ち上がった。
――――静寂。あらゆる視線が突き刺している。
さっきまで歓声と悲鳴に満ちていた儀式殿から、音という音が消えている。祝福の言葉も、拍手も、何もない。ただ晴天のなか静けさだけが満たしていく。
「尾が……」
震える声で神官殿が見つめていた。成獣の証を何度も確認したうえで、目を見開いたまま息を詰まらせていた。
「……尾が一本も生えておりません。零尾です……」
その一言で、張り詰めていた静寂が崩れた。
ざわめき、困惑と軽蔑と冷ややかな声と……先ほどまでとは全く異なる視線ばかりが集まっていく。
羨望も、憧憬も、嫉妬もない。縋るように、いままでずっと付いてきてくれていた女子たちに視線を向けたが。目も合わせられなかった。
明らかな異端を前に、彼女達は穢れを見るように軽蔑するか、顔を俯けるだけだった。
「俺が……九尾じゃない。……いや、それどころか。尾がない……なんで、成獣の傷は確かにあるのに。それにブシドーの声だって……」
――――俺は誰に言い訳をしている?
視界が真っ白になっていく錯覚がした。頭が真っ白なんだ。これ以上の言葉もでてこなくて、ただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。
…………なんて恰好の悪い。
「俺は、どうすれば……?」
問いかけに返答はない。尾の差は身分そのものだ。クズノハの家名があれど、誰も目を向けようとはしなかった。
アキツグは他の少尾の連中と同じように祓尾検使に身柄を拘束され、引きずられていく。だが向かう先は下層行の籠ではなかった。
「俺をどこへ連れていく気だ」
彼らは答えない。祇壬泰卜院の裏手へ回り、一般学生の立ち入りを禁じられた回廊を進む。幾重もの鳥居を潜り、幾枚もの結界札を越え、その最奥に建つ白壁の棟へ辿り着いた。
自動扉が軋みながら開いた。無数の監視ドローンと烏が見張る異様な建物。……瑞獣夜社の禁足区画だった。その収容室に無造作に突き飛ばされ、鍵をかけられる。
真っ白な壁。床。天井。何もない空間。尻尾無しにはお似合いの場所か?
「……はは」
乾いた笑いがこみ上げた。父上の想いに仇を成した。いや、それどころかこれからどうなる? 尾無しのブシドー憑きなど前例がない。
「っーー……俺は、なんで」
尾無しは……弱者だ。どうにもできない。どうにもならない。
それでもぐるぐると思考は巡って、ブシドーを身に憑けた副作用が再び痛みだして、喪失感だけを抱えたままどうしようもなく意識が遠のいていく。
◆ ◆ ◆
「おい。起きろ」
かつては言われたこともないようなぶっきらぼうな言葉と共に、鋭い痛みが頬を叩いた。反応が遅れると無遠慮に腹を蹴られて、アキツグはぐしぐしと涙の痕を拭い隠しながら飛び起き、激しく噎せ返った。
自分を見下ろす男と目が合う。口元を黒布で覆い、黒装束を纏った八つの尾。その尾は感情を隠すように静かに揺れていた。
「ようやく起きたか」
父上の側近の……忍衆の長だった。
「お前は……父上の。ああ、よかった。父上にも俺がこんな場所で監禁されている話がきたんだな。いつ出られる? せめてこの区画にいられなくなるとしても、最後に挨拶を――――」
「ドウゲン様のお言葉をそのままお伝えする。――クズノハアキツグ、お前は高貴なる血を継ぎながら尾一つ生やせぬ醜態を天下へ晒した。もはや葛葉の名を騙る資格はない」
そんな無慈悲な言葉が淡々と続いた。
「家宝の刀は尾無し如きが触れた今、もはや回収する価値もない。クズノハ家はお前から名を取り上げる。今日この時をもって、お前を勘当する。二度と私を父と呼ぶな。葛葉を名乗るな。この都市の上層へ足を踏み入れるな。尾無しは尾無しらしく、泥に塗れて生きろ。次に姿を見せた時は、都市の秩序を乱す異物として処理されるだろう」
「…………父上も、尾だけを見ていたのですね。俺は……無価値だから捨てられるのですね。まぁ……そりゃ、そうか。俺だって、ろくな尾もないやつの相手なんてしない」
八尾の男は何も答えなかった。沈黙したまま抜刀し、壁を切り裂いて、最下層にまで伸びる籠を指さした。……外はすでに日が沈み切っていた。
「走れ。そして地に落ちろ。お前のような者に天は相応しくない」
目頭が熱くなる。嗚咽がこみ上げる。痛みはもうなくなっていたはずなのに、どうしようもなく胸の奥がキリキリと締め付けられていく。
アキツグは駄々を捏ねたりはしなかった。それは格好悪いだろう。……舞台に立つ資格のない者が壇上にあがるべきではないから、必死に涙を飲み込んで、振り返りもせずに籠へ駆けていく。
重い格子扉が閉ざされると、ワイヤーは巻き取られ、籠はゆっくりと降下し始めた。
見慣れた最上層が遠ざかっていく。白壁の屋敷の行灯が光の軌跡を描いて消えていく。幼少のころ、何度も渡り遊んだ朱塗りの橋も、父上が好きだった庭園も、一瞬で過ぎ去っていく。
光は、一層、また一層と遠ざかり瑞獣夜社の巨大なロゴマークが視界を埋め尽くす。だがそれも数秒で見上げることしかできなくなって、
一層、また一層と高度を落とすほど建物の密度が増していった。
屋根と屋根が折り重なり、無数の橋が宙を渡っていく。木造の長屋へ鉄骨が継ぎ足され、梁には電線が蜘蛛の巣のように絡み付いて、夜を照らす灯も、上品な行灯から裸電球へと変わっていく。
だが籠は止まらない。夜空は頭上は幾重もの街並みに覆われ、細い隙間から覗くだけになった。湿った空気が籠へ流れ込み、雨の染み込んだ木材と淀んだ水の臭いが鼻を刺していく。
籠が最下層にまで着いて、重く揺れて、格子扉が開いた。
「…………こんな場所が、あったのか」
舗装されていない泥道には幾筋もの轍が刻まれ、濁った雨水が水溜まりとなって淡いネオンを歪ませていた。
長屋が隙間なく建ち並び、増築を繰り返した木造建築へ鉄骨や鋼板が継ぎ足され、その継ぎ目には無数の配線が這い回っている。
軒先では桃色、紫、青緑のネオンが無秩序に品性なく闇を押し返して、木製の看板と電子看板が折り重なるように吊り下げられていた。
雨避けの天幕は色褪せ、軒からは錆びた雨樋が幾本も垂れ下がり、排水路へ濁った水を絶え間なく落としている。
最下層、最低階級の尾憑き区域は同じ都市の中とは思えぬほど、膿んだ街並みだった。




