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36 落涙

小鳥の囀りを聞いて、ぼんやりする頭を起こす。

夏の香りを纏った日差しが眩しくて、しょぼしょぼする目を擦る。

眠っていたらしい。あくびをこぼす。

ろくに働いていない頭でぼんやりと状況を整理、しようとして、目の前の寝顔にすぐ合点がいく。


「…寝てる」


顔色も良く、穏やかに眠る夫の姿に安堵する。

昨日、あの後食事をしてから、結局心配で焔さんの部屋に来ていたのだ。

看病と銘打ってそばにいたのだが、睡魔に負けたらしい。襲ってきていたことにすら気づかなかった。

あーあ。なんてこった。

と、身を起こすと肩からばさりと温もりが落ちた。

誰かが布団でもかけてくれたのかと思ったが、かけられていたのは布団ではなく男物の大きな羽織だった。

真っ黒で、裾に向かって緩やかに紅くなっていく羽織は、もしかしなくても焔さんのだ。


「………」


誰がかけてくれたんだろう。

ぼうっと思考の上澄みで考えながらそれを畳み、焔さんの様子を改めて伺う。

やはり顔色は良くなっているし、呼吸も安定している。

そっと額に手を当ててみたが、緩やかな優しい温もりだ。

熱もしっかり下がっているようで、尚のこと安心だ。


起こすべきか否か。逡巡して、なんとなく気恥ずかしいので起こすのはやめた。

一旦自分の部屋に戻ろう。そっと静かに、けれど可及的速やかに、自分の部屋に戻ろう。

決して気恥ずかしいから逃げたいとか、そんな理由はない。ないったらない。


「ア、奥様」


目論見は外へ出た瞬間に崩壊した。

龍樹くんが目をまんまるにして、そこにいた。


「お、はよう、ございます」


たどたどしく挨拶すれば、龍樹くんは私のつま先から頭のてっぺんを見て、それから私が今出てきたばかりの部屋を見た。

そしてもう一度、まんまるになったままの目で、私の顔をしげしげと眺めた。

とても気恥ずかしいです。


「お召し物ヲ見るに、一晩中ずっト焔様の看病をサれたのですか?」


「えっ、いや、あぁ、うーん…」


寝こけてしまっていた以上、素直にハイと言いづらくて、視線も言葉も泳ぎまくる。

ついでに両手もうろうろと彷徨っていて、正直とても挙動不審だと思う。

龍樹くんは不審者に成り下がった私を、じっと見つめていたが、やがて耐えきれないかのように、クスリと笑った。


「心配性なんデすか?」


いたずら小僧のように、龍樹くんは笑った。

「え?」と思わず聞き返すと、だって、と言って、龍樹くんは自分の右頬を軽く指差した。


「畳の跡、ついてマすよ。心配デ上手く眠れなかったンでしょう?」


思わず自分の左頬を手で覆ってから、慌てて右頬を抑えた。が、全ては遅い。

ばれた。全部ばれてる。恥ずかしい。

ちらりと見えた自分の右腕にもしっかり畳の跡がついてる。

何となく不安で、ちょっと見てるつもりが、寝こけて朝になるまで傍にいたとか。

朝起きてから急に恥ずかしくなって誤魔化そうとして、今慌てて出てきた所だとか。


恥ずかしすぎて顔が熱い。茹だる。

私のその表情を見て、龍樹くんは心底おかしそうに笑った。意地悪だ。


「ははは、ごメん、ごめん、嬉しイだけだ、デすよ」


「言葉メチャクチャになるくらいには面白がってるじゃない…」


「ふふ、ははは、ゴめん、僕は敬語とカ、少し苦手なダけで、ははハは!」


穴が欲しい。私入るから。蓋をして。切実に。

顔がかっかと熱くなってる傍で、龍樹くんはお腹を抱えて笑ってる。

ひどい。そんなに笑うことないのに。

でも正直、笑いたくなるくらいに自分が滑稽だった自覚もある。

ひどい、と一言言ってやろうかと拳を握るのと同時に、背後で戸が開く音がした。


「朝から随分元気だな、龍樹」


ぎょっとして振り返ると、寝ぼけた顔をした焔さんがそこにいた。

昨日の具合など噯にも出さないで、まるで平然と立っていた。

思わず呼吸さえ止めて驚いている私とは違い、龍樹くんは当然のように朝の挨拶を返した。

焔さんはあくびを噛み殺して、その挨拶に軽く答えた。

その様子までぽかんとしたまま眺めた私は、焔さんと目があってようやく我に帰った。


「お、はようございます」


「ああ、おはよう」


「体調、は…?」


「ああ、問題ない。いきなり倒れてすまなかった」


「え、あ、いえ、なんとも、ないなら…」


よかったです。なんて、言いながら、声が上滑っている。

緊張する。目が合わせられない。

ゆるゆると視線を下に落として、ついに自分の足のつま先を見る。


「…怒って、いるのか?」


焔さんの静かな声に、わずかな動揺が見て取れる。

決してそんなことはないのだから、違うと言えたらよかったのに、喉がひりついて、言葉が出てこない。

じわじわと目の奥が痛くて、ゆるゆると視界が揺れる。

ほたり、と、雫が落ちたのが見えた。情けないこと。

自分の足よりも少し前で、雫が砕けて潰れてしまった。

自分がなぜ泣いているのか、理解できない。


「蛍?」


より動揺の滲む声に、咄嗟に顔を覆った。

恥ずかしい。見られたくない。情けない。

ごちゃごちゃと思考がこんがらがっていくのに合わせて、ぽたぽたと手の中が涙で濡れていく。

『怒ってません』も、『大丈夫です』も、『ごめんなさい』も、何も言葉にならない。

ひりひりと痛む喉からは、情けない子犬のような嗚咽しか出てこない。


「た、龍樹…」


「焔サまが泣かせたのでスから、ゴ自分で解決なサってください」


「う、ぐ…」


ごめんなさい。こまらせたいわけじゃないの。

自分でもなんでこんなに涙が出るのか、わからないの。

何がこんなに苦しいのか、わからないの。

何にも言葉にならないのに、涙ばかりぼろぼろと遠慮を知らないで溢れ続ける。


「…ほ、ほたる、大丈夫か? おれは…私はどうしたらいい?」


「すゲー混乱されてますネ、焔さマ」


「怒ってしまった、のか? ど、どこか痛いのか?」


「見タところ怪我はないよウですが」


「…龍樹、うるさい。手伝わないなら放っておけ」


龍樹くんと焔さんのやりとりが優しくて、面白くて、思わずふすりと笑いが飛び出てきた。

だけど、涙も嗚咽も止まらないままなものだから、いっそ苦しいくらいだ。


「? 笑っ…た、のか?」


「奥様、ダいじょうぶでスか?」


「だ、じょ……す」


言葉になってない。それでも喉のひりつきは飲み下せたのか、少しだけ呼吸が楽だった。

なんだか笑いと涙が一緒に出てくるものだから苦しい限りなのだが、不思議と不快ではなかった。

はふはふと溺れているような呼吸だったが、なんとか落ち着かせて深呼吸をする。


「すみません、なんか、涙出ちゃって」


恥ずかしいやら情けないやら。

より顔を上げられなくなった私はぺこぺことお辞儀を繰り返しながら言った。


「いや、無理をしている訳じゃないならいいんだが」


「安心しタんじゃナいですか?」


「あん、しん…?」


「あ、ん、しん…」


龍樹くんの一言に、私の動きは止まる。

思わず繰り返した言葉は、すとんと胸に落ちてきた。

なんだか油に火をつけられたように、顔がかっと熱くなった。


安心したから泣いちゃうって、子供かよ!


思わず叫び出しそうになったけど、ここはグッと我慢。

だけど居た堪れなさは過去最高なので、遠慮なく逃げたいと思います。

情報過多に私の脳内がお祭り騒ぎだが、そんなことは知ったことではない。


「見苦しくて申し訳ないですっ!」


一刻も早くここから立ち去らねば。

使命感にも似た決意のまま、全力で自分の部屋の方に走って逃げた。

焔さんが何か言っている気もしたけど何も聞こえません知りません。

それこそ恥をどこへ置いてきたのかという無様な姿だったかもしれないが、今の私は一刻も早くそこを脱出することで頭がいっぱいだったので、許して欲しい。

あとでイマジナリーお母さんに叱られますから、今だけは。今だけは、逃がしてほしい。



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