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29 焔の炎

例えば、隣の家に古くから立つ椿の木には『姫さま』。

例えば、学舎の脇にひっそりと佇む銀杏の老木には『おきなさま』。

舗装されていない獣道に転がる特徴的な大岩に、『苔太郎』と『苔次郎』。

近所の神社の御神木の松には『門左衛門』。

なんだかんだ長い間友人で居てくれた子との待ち合わせ場所の一本杉には『一心』。


つらつら出てくる名前に、焔さんは足を止めて振り返って、こちらを見て目を丸くした。

夕闇に溶けかけてなお、焔さんの目は明るく輝いている。


「そんなにか?」


感心と呆れを含んだ声色に、気恥ずかしくなる。

かつて同じことを耳にした私の両親は、人間の友達は居ないのかと大いに嘆いた。

そしてその後、そのあだ名は人前で口にするなと雷を落とされた。

今となってはいい思い出だ。


「あとは曽祖母の家の前に植っていた柿の木に、『銀次』、とか…」


「ぎんじ…」


焔さんは小さく反芻して、また足を動かし始めた。

もう一度小さく繰り返された『銀次』の名前はちょっと震えていた。

もしかしなくても笑ってる。


「由来などあるのか?」


くつくつと笑う声と共に投げられた質問に、そりゃあ、まあ、と頷く。

何やら、焔さんにしてみたら面白い話題のようだ。


「姫さまは薄紅の柔らかい花をつけるのが美しくて、姫さま。翁さまはとても綺麗な黄葉こうようを見せてくれるので、翁さま」


「綺麗な黄葉だと『翁様』になるのか?」


「あ、えっと…。あと葉っぱが扇型だし、お爺ちゃんだし。……あと、その銀杏には曰くがあって…」


「曰く?」


「……深夜になると、白髪のお爺さんが木の上で踊るっていう…」



ついに焔さんが声を上げて笑った。

子どもの頃の根も葉もない噂話だ。学校の怪談とか、七不思議とかと同じ類の。

だけどまあ、木の上で踊るってのは確かに愉快だと思う。


「あと、苔太郎兄弟は、苔むしてて、なんか兄弟みたいに寄り添ってるから、その名前ですし」


「ふふ、そうか」


視界はどんどん暗くなっていくのに、焔さんの声と背中のお陰で、随分気が楽だ。

それでも、背後で藪が鳴ればどきりとしてしまう。


「蛍」


警戒を孕んだ鋭い声が、私の動きを止める。

目の前の背中も、足を止めて息を潜めている。

周囲の空気が、急激に冷える。どく、どく、と心臓が鳴る。

口の中が渇いて、頬を汗が伝う。


何かが、いる。

それだけは解る。


「ほ、ほむら、さん」


不安と恐怖が押し寄せてきて、思わず声を上げる。

か細くて情けない声に、自分でも驚く。


枝と葉と根が、がさりがさりと、ぱきりと音を立てる。

音が近づいてくる。何処からなのか、解らない。

うまく動かない頭と目を、必死に動かして周囲を見る。

だが私たちがいる場所は獣道で、左右のどちらも木々が視界を遮っている。

そうでなくても、もう闇夜が地を這っていて、物の輪郭さえ曖昧だ。


は、は、と息遣いが聞こえる。近い。怖い。

つんと鼻をつく異臭がして、背筋がぞっとする。

ヒトの香りとも、獣の臭さとも違う、嗅ぎ慣れない異臭。

かくかくと膝が笑う。怖い。

思わず、強く目を瞑る。


「蛍」


小さく、けれどしっかりとした響きで、名を呼ばれた。

頭にふわりと温もりが降りてきて、束の間恐怖を忘れて顔を上げる。

すぐ目の前に、焔さんの着物があった。

そっと柔らかく背中を包まれて、焔さんの腕の中に仕舞われる。


「ほ、ほむらさ…」


「しっ」


声を上げた私を静かに鋭く制止し、焔さんは周囲をゆっくりと見回した。

どくりどくりと、私のものでは無い鼓動が、耳のすぐそばで鳴っている。


「すまない。やはり、もっと早く発つべきだった」


小さく小さく後悔の混ざった声色で、懺悔のように呟かれた。

そんな事を言えば、私だって帰りのことなど頭から抜け落ちて、まだ見たいと駄々をこねたのだ。

焔さんだけが懺悔する必要なんかない。


げっ、げっ、と、蛙の声をより醜くしたような声が聞こえて来る。

その声は複数で、少なくとも私の知る獣ではない事は確実だった。


「小鬼、ですか…?」


小さく問えば、焔さんは微かに頷いて肯定した。

山に時折現れるという小鬼。私にしてみればゴブリンという言葉の方がイメージしやすい。

人の肉を喰らう、知能と僅かな理性がある魔物だ。

その理性と知性のために、社会を築き、集団で活動する。

とても低い文明と知能しか持たないと言われるが、僅かながら地の魔を宿し、毎年幾人もの人が小鬼たちによって狩られている。

ゲームやファンタジーでは雑魚とされがちなゴブリンだが、少なくともこの世界のこの国では、十分に凶悪で厄介な魔物だ。


とはいえ、ありがたいことに私は今まで小鬼ともそれに類する魔物とも、遭遇したことはなかった。

知識だけと実物を見るのとは、当然だが天と地ほどの差がある。

視界は焔さんによって守られているけれど、がさがさと茂みをかき分ける音が、すぐ側でしている。

魚の腐ったような、さらにそれに硫黄をかけたような異臭も、随分濃くなってきている。

どきどきと心臓が高鳴って、体がどんどん硬直していく。


焔さんの温もりで和らいだはずの恐怖が、もう一度私の足から這い上がってくる。

知らないうちに、呼吸が浅くなる。

目の前の焔さんの服にしがみついた。


さら、と頭を撫でられた。


「大丈夫だ。蛍」


不思議なほど、その一言に安堵した。

柔らかく耳朶に触れた声に、肩から余分な力が抜けていくのを感じた。

さら、ともう一度、大きな掌が私の頭を撫でた。


げぎゃ、きぃきぃ、げっげっ、ぐるるる。

知性をなくした人間の様にも、獣の唸り声にも聞こえる声が周囲に響く。

いる。もうすぐ近くに。すぐそこに。

だけど不思議と、先程までの闇雲な恐怖は湧いてこなかった。


「小鬼ども。俺がわからぬか?」


焔さんの声は、低く地を這って小鬼たちの喉元を締め上げた。

息を呑むような沈黙が、一瞬だけ横たわる。

次いで、さざ波のように小鬼たちが互いに囁き合い始めた。


きぃー! と、甲高い悲鳴のような声が空気を切り裂いた。

一体のその声を皮切りに、次々と似たような声を上げる小鬼の集団。

解っていたけれど、凄い数だ。最低でも10。下手すればその3倍はいそうな音の数。

安心させるように、私の背中にある温もりが、柔らかく背を撫でた。

這い上がる恐怖を、その大きな手の温もりが払い落としていく。


「蛍、目を閉じて耳を塞げ」


焔さんのその言葉に、ほぼ反射で従った。

くぐもった音の向こう側で、断末魔のような奇声が響いた。

異臭が燻されたかのような臭さに変わる。

何となく何が起きたか、わかった。


ぽんぽん、と優しく背中を叩かれて、目と耳を解放する。

見上げれば、少し眉根を寄せた焔さんの顔。

もう周囲は暗闇だというのに、その表情はよく見えた。


「大丈夫か?」


気遣わしげな声に、頷いて返事をする。

なんとはなしに、ふと振り返ってしまった。

3つ程の黒い塊が、強烈な異臭を放ちながら転がっている。

丸い腹に枝のような手足。小さな頭に似合わぬほどの大きな口と、そこから覗く鋭い歯列。

初めて見た小鬼は、赤々とした小さな炎に舐め回されて転がっていた。

歪な頭からは捻れた一対の小さなツノが生えていて、それは前世で知るところの餓鬼に似た姿だ。


「怪我はないな?」


「大丈夫です。焔さんこそ、お怪我は?」


「ない。…すまない、恐ろしい思いをさせた」


行こう、と肩に手を回し、共に歩き出す。

大きな手がしっかりと私の肩を掴んでいて、今までにない距離にちょっとどきどきする。


「焔さんが居てくれたから、大丈夫です」


口をついて出た言葉に、自分でも驚いた。

ぴたりと動きを止めた焔さんも、目を見開くようにして驚いてる。

…じわじわと恥ずかしい。


「朽葉さんが待ってますから、帰りましょう」


誤魔化すように促して、肩に乗る焔さんの手を取った。

燃え移ったのでは無いかと思うほど、顔が熱い。

ああ。真っ暗で良かった。


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