28 帰り道と郷愁
溶けまくって思考までぐずぐずの私など構うはずもなく、焔さんは笑っていた。
紅蓮の瞳がなによりも雄弁に、喜びに燃えていた。
「気に入ってくれただろうか?」
この場所を。
焔さんの嬉しそうな問いに、壊れかけている私はおもちゃのウシみたいに、首を縦に振ることしかできない。
なんだこの破壊力の高い笑顔は。
この笑顔だけで何人か人を幸せに出来るんじゃなかろうか。
半ば以上放心している私に構わず、焔さんは私の手を引いていく。
あくまで優しく、柔らかく。
なんだか雲の上にでもいるかのようなふわふわした気分のまま、私も大人しく陽だまりへ連れ出される。
ざあざあと流れ続ける滝は、確かに小さめなのかも知れないけど、十分に迫力がある。
時折冷たい水飛沫が頬へ飛び、初夏とは思えない涼しさだ。
というかぶっちゃけると寒い。
ただでさえこの山は木々のおかげもあって十分に涼しいのに、この滝の近くは流石に涼しい通り越して寒い。
歩き続けてかいた汗が冷えていくから余計なんだろう。
焔さんはといえば、やはりというか。
寒さなど微塵も感じてない様子で、柔らかくてまろい笑顔のまま。
「この滝を見つめると、時間を忘れる」
どうかすれば滝に飲まれそうな声で、焔さんは言った。
まあ、なるほど確かに。
木々を眺めるのとはまた違い、絶え間なく表情を変える滝を見ていると、段々無心になる。気がする。
風にそよぐ木々を眺めるのが好きな私は、滝とも相性がいいのかもしれない。
何だか不思議と目が離せないこの感じは、多分放っておくと一日中見てられると思う。
木々にしても滝にしても、雲の行く末や川の揺らぎにしても。私は緩やかに動く大いなるものを見つめるのが好きなようだ。
ただ、そういった時の自分の顔は、大抵間抜け面になるので一人で見たいのが本音。
というか、もしかして焔さんも間抜け面っぽくなるのかしら。
ちらりと焔さんを見上げてみる。
が、穏やかで柔らかなあの笑顔で、じいっと滝を見続けているだけだ。
残念。綺麗なお顔のヒトの間の抜けた顔って見てみたかったんだけどな。
「…つまらないか?」
気づけば滝より焔さんをガン見してた。
焔さんは少し困ったようにこちらを見て。それで初めて焔さんを凝視していた自分を自覚する。
恥ずかしい娘だな、本当に。
「いや、あの、いつまででも見てられるんですけど、なんていうか…そ、そういう時の自分の顔が、ちょっと人には見せられないくらい間が抜けているといいますか……」
既に大分醜態を晒していると自覚はあるけど、でもやっぱり見栄とか意地とかが消えるわけでは無い。
間抜けた呆け面なんて、例え旦那にだって見せたくはない。
というか旦那様にこそ見せたくない。
私の言いたいことは上手く伝わらないようで、焔さんは怪訝そうに首を傾げている。
…うあ、なんだろう。ちょっと胸が…き、きゅんとしてしまった…。
初めてか、あるいはとてつもなく久しぶりとなる感情に、私はものの見事に翻弄されている。
自分が自分じゃないような、ふわふわして何処となく恥ずかしくなる。
落ち着きなさい、蛍。あんた今いくつになるの。年甲斐もなく浮き足立つんじゃないの。
「俺にはいつもの蛍に見えるが」
「いえ、気をつけないと顔がだらしなくなるんですよ…」
「ここには俺しかいない。気を使う必要は無い」
この鬼様に女心を察して欲しいと思う方が間違いらしい。
まあ、焔さんにしてみれば、私がどんな表情してようが、目の前の滝さえ綺麗なら何でもいいんでしょうけどさ。
複雑な心中はそっと仕舞い込んで、曖昧に笑って誤魔化す。
「無論、ここが退屈ならば、直ぐに帰ろう」
焔さんがそう言って手を差し伸べてくる。
私の言葉には説得力がないようだ。
それよりも、かつてなく笑顔の多いこのヒトが、矢鱈と私を優先しようとしている気がして、なんだか居た堪れない。
くすぐったさやこそばゆさよりも、申し訳ないような気持ちになる。
いきなり湧いた、望みすらしない厄介者に、彼は何故こうまで心を砕けるのか。
私が珍しいからか。
否。珍しさを微塵も感じていない訳では無いだろうが、彼の言動はその珍しさを引き出そうとするものではない。
私が哀れだからか。
否。彼は私に心を砕いても、決して慰めようとか、腫れ物を触るように触れてはこない。
ならば何故だろう。
彼が底抜けに優しいヒトだからか。
それすらも、きっと否。
彼の目に宿る強烈な光は、決して優しさなんて柔らかいだけの感情じゃない。
それくらい、私にだって解るのだ。
嗚呼。だからこそ、解らない。
私の中に巣食う感情も、このヒトの宿す炎のような光の掬い方も。
「…できれば、もう少し見ていたい、です」
「…そうか」
少しだけ満足げに笑う、このヒトも。
私たちの間にそれ以上の言葉はなかった。
ざあざあと轟く滝の声だけが、時間が流れているのを教えてくれる。
沈黙も、悪くなかった。
じいっと、ともすればぼうっと、星中を駆け巡る旅人を眺める。
海に山に町に野に。彼らは命を繋ぎ続ける。
何処へでも駆け行き、恵みと災いを振り撒いていく。
かつて私が、私ではない私であった時生きていた、地球と同じように。
「…っ、くちゅ!」
くしゃみが出た。気づけば中々の寒さになっている。
日陰なのも手伝ってか、体は少し冷えていた。
ふるりと一つ身震いする。
「寒いか。帰ろう」
焔さんはそういうと、返事も待たずに歩き出してしまった。
まだもう少し、滝を眺めていたかったんだけど…。
私を通り過ぎて少し先を行った焔さんが、足を止めて振り返る。
待っていてくれている。
胸の奥が少しばかり綻んで、暖かくなった。
「大丈夫か?」
いけない。私はまた反応を忘れている。
気遣わしげに私を見遣る焔さんに、小さく笑って大丈夫と答えた。
ちらりと滝を見てから、私も足を前に出す。
轟々と唸る滝の声は、少し離れた木々のトンネルに入ると、不思議なくらい静かになった。
「すまない。日が傾いていた」
そう言われて納得する。
木々の真上から差していた鋭くて優しい光が、今は力なくぼんやりと木々に反射していて、結構な時間が経っていたことに気付く。
さわさわと遠くで鳴る風と木の葉の音も、何処となく恐ろしさを纏わせていた。
もうすぐ茜の刻になり、そして夜の帳が下りるだろう。
「滝、綺麗でした。連れてきてくれて、ありがとうございます」
行きとは全く違う理由で、沈黙が怖い。
まだ見える足元も、いずれ闇に溶けてしまう。
人工の明かりも星の光も届かない夜は、少しだけ、ほんの少しだけ、怖い。
気を紛らわせたくて、口を開いた。返事は無くてもいい。
ただ、口を開いて声を出して、言葉を紡いで、安心したいだけだ。
「つまらなくは無かったか?」
「とてもとても、感動しました。もし、もし機会があれば、また連れてって欲しいくらいです」
「ふふ、そうか…。そうか…」
あ、焔さんが笑った。
背中しか見えないのが、ちょっと勿体ない。
どうにも私は、焔さんの笑顔が好きみたいだ。
かさりと藪が鳴る音に、大袈裟に肩を跳ねさせてしまったが、焔さんが前にいてくれて良かった。
「あの滝は、名前とかあるんですか?」
「名前? なぜ?」
しまった。前世の感覚だと、土地だけじゃなく、川や滝や湖にも、名前がついてるものだから…。
ニブフイエでは、大雑把に土地に名前がつくくらいで、川や湖や山に、名前をつける風習がない。
ましてや、焔さんたちしか住まないこの山の滝になど、名前がついている方が不思議だ。
「い、いやぁ…、なんとなく…。愛着が湧いたりすると、名前とかつけちゃったり…しないかなぁ……なんて」
「蛍は名付けるのか? 山や川や、木々に」
焔さんの質問に、ぎくりと身が凍る。
実を言うと、個人で所有している訳では無い自然物に、勝手に名付けて広めるのはあまり褒められたことでは無い。
この国の多くは、この国の帝様が所有する物だからだ。
とはいえ、別に罰があるわけでなし、個人的に勝手なあだ名をつける分には特に咎められる事もない。
が、なんとなく悪い事をしているような気もする訳で。
「…実家の近くの老木とか…よく待ち合わせに使われるおっきな岩とか……勝手にあだ名つけてました…」
もごもごと煮え切らない返答をした。
怒られたり、呆れられたりするかしら、なんて思ったけど。
「例えば、どんな?」
焔さんは、怒るでも馬鹿にするでもなく、自然と会話を繋げてくれた。
些細なことだ。だけどちょっと、嬉しい。
薄闇に溶けつつある足元に気を配り、地元のことを思い出す。
郷愁に、ほんの少し胸が痛んだ。




