懺悔は許されない ※焔視点
ちょっとばかり短いです。
蛍は、少しずつ心を開いてくれるようになったのだと思う。
始めは一切の興味と関心を持たれていなかったが、今は俺の勧める本を読んでくれるようになった。
活字が何処まで読めるか分からず、子ども向けの伽話を与えてしまったが、彼女は真剣に読んだ。
そして、俺が望む会話さえ、してくれた。
自分でも随分と現金だと思うが、俺は蛍に惹かれ始めている。
今まで渇望していた多くを、彼女は少しずつ俺に与えてくれるのだ。
偏見のない瞳も、柔らかい笑顔も、純粋な気遣いも、底無しの暖かな心も。
愛も恋も今はいらない。ただこの暖かな居場所さえあれば、今はそれ以上を望まない。
だが、失うことだけは許せない。
理由がないから逃げないと言った彼女に、どうか逃げる理由が現れないように。
俺は浅ましくも、そう願う。
そうだ。浅ましい俺は忘れていたのだ。
否、高を括っていたのだ。
一年も姿を現さない同族は、この先ももう二度と、姿を現さないだろう、と。
病を食らう、俺の少ない理解者であり、同族でさえあるあの犬は、きっと二度と会えないのだと。
なんの根拠もなく、そう思い込んでいた。
来客を告げた龍海の言葉に、冷水を浴びせられたかのように体が冷えたのが解った。
始めは、一年も姿を現さなかった友への怒り。
ついで、奴が現れた意味を悟り、蛍を失うかもしれないという焦り。
退室を申し出る蛍に、それを許せばそのまま消えてしまうかも知れない恐怖に、俺は彼女に縋り付いた。
病犬がいなかった。故に病は広がった。
俺は知っていた。病犬を呼べばこの病は収まることを。
知っていながら沈黙し、ことの成り行きを見守っていた。
高みの見物を決め込んで、その挙げ句が蛍という生贄を生んだのだ。
こんな事が彼女に知られたら、俺は嫌われるかもしれない。
もっと本気で病犬であるアイツを探せば、蛍はここへくる必要もなかったのだから。
くるくると思考がまとまらないまま脳裏を駆け巡る。
後悔や懺悔や我儘や言い訳が、形を成す前に混ざって渦巻いている。
縋りつく幼子のような俺を覗き込んで、蛍は呆れる様子もなくそばにいてくれる。
この温もりを、手放したくない。
「よ、久しぶりじゃねーの?」
あまりにも飄々と、悪びれなく現れた旧知に、一瞬とはいえ殺意さえ覚えた。
こいつがそういう生き物だと知っていたが、それにしても腹が立つ。
俺の気も知らず、一年前と変わらぬ減らず口はぽんぽんと余計なことばかりを口にする。
ついには蛍のことをババアなどと言い出す始末だ。いっそ死にたいのかも知れない。
「透」
複雑に絡み合う感情は、未だ整理されずに俺の中を渦巻いている。
とにかく余計な事を言わないでくれと、余りに自分勝手な願いさえ湧き出る始末だ。
その混沌とした感情を押し付けるように友人を問いただしていけば、彼は少しずつ沈黙を重ねた。
何かいうことはないのか、と問うたが、犬は水色の目玉をキョロキョロとさせるだけだ。
ああ、俺がこんなに浅ましいから、この数少ない友も、本当のことを教えてはくれないのか。
一月に一度は顔を見せる友人が、何の知らせもなく行方を眩ませて十二ヶ月。
その理由さえ、話してはもらえないのか。
混乱してぐちゃぐちゃと絡み合う感情の中から、悲しいという感情がするりと現れて俺を包む。
紹介を、と促されてようやく、蛍になんと説明したら良いか考えるのだ。浅ましい。
「こいつは病犬族の生き残りだ。その名の通り、病を振りまくと言われている」
臆病な俺は、そんな言葉で誤魔化すのだ。
自分の浅ましさに反吐が出そうだ。
「まぁ、本当は俺たちが病を食う犬だから病犬なんだけどな。口伝や伝統なんて、半分は嘘と偏見だよ」
俺のささやかで卑怯な思いは、簡単に砕かれた。
なんの邪気もない犬が、へらりとあっさり暴露する。
慌てて話を他所へ流そうといなくなった原因を聞けば、あまりの体たらくに頭を抱えそうになった。
仕舞いには元凶となる病は全て食べたなどという始末。
俺の浅ましい願いは届かず、蛍から表情が抜け落ちたのを見て覚悟を始める。
嫌われることも、ここから立ち去られることも。
「この世の終わりみてぇな顔すんなよ」
この犬は目敏いが心の機微に疎い。
余計なお世話だと睨みつければ、面白いほど肩を跳ねさせてとびあがった。
だがそんな姿に笑う余裕もなく、俺は蛍の様子を伺う。
茫然と座る彼女は、魂が抜け落ちたかのように静かだ。
だが次第にゆるゆると眉を下げ、大きな災害が立ち去った事を知った子どものようにへにゃりと力なく笑った。
その桃色の柔らかな唇がほうと息をついて、赤茶けた目が水飴のように溶けていく。
あまりにも無防備に、あまりにも美しく、彼女はとろけるように笑った。
俺の体の中心が、どくりと底知れぬ熱を宿した気がする。
「よかったぁ…」
ほつりと小さく小さく溢れた言葉は、俺が予想したどの言葉より柔らかくて優しかった。
俯いた顔は見えなかったが、何故だか彼女は怒りや絶望ではなく、安堵を抱いているようだということはなんとなく分かった。
だが、それに安堵する間も無く、不思議そうな顔で天井を見上げた彼女がはらはらと涙を流すのを見て肝が冷える。
鬼だという俺の元へ来た時も、逃げないと明言した時も見せなかった、涙。
「…蛍?」
俺の声のなんて情けないことか!
焦点の合わなかった瞳が、俺の方を見た。
口から出そうだった他の言葉は、全部その瞳に吸い込まれて何も出てこなくなった。
透明な彼女の血液は、今まで見たどんな物より美しく、儚げに彼女の頬を滑り落ちる。
溶けて滲んで歪んでいる赤茶色の瞳が、目蓋に隠れるのが惜しい。
はくはくと言葉も声も無さない口の動きが、俺を呼んだ気がした。
首を傾げている友人など構う暇はない。
差し出された手は迷子の子どものようで、一瞬その手を取るのを躊躇する。
「ほむ…ら、さ…!」
嗚咽に混ざったその声に、俺は躊躇を忘れて飛びついた。
初めて、蛍の本当の大きさを思い知った。
すっぽりと胸に収まる彼女が、俺にしがみ付くように伸ばされた手が、こんなに弱いなんて。
声もなく泣き続ける彼女が、なんで底無しの日差しだなどと思えたのだろう。
すまない。
その一言は喉の奥で引っかかって、頑なに出てこようとしない。
ただ、幼子をあやすように、その頭をゆっくりと撫でる。
ああ、浅ましい。
この娘が、俺から離れようとした訳ではないと知って。
俺の方がきっと、蛍よりもずっと浅ましく、酷く、醜い理由で安堵している。
腕の中のこの温もりを、俺はもう手放せない。
それが酷くて醜くて、この上なく残酷だろうと思いながら、俺は生涯、このことを蛍には話さないだろう。
喉からようやく出てきそうだった懺悔を、俺はついに飲み下した。
ヤンデレか溺愛のタグを追加するべきかもしれないと、ちょっとだけ思いました。




