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21 犬のお客さん

しとしとと雨が降り止まない。

書斎は静かで、墨と筆の音と本のページをめくる音に支配されている。

本を読む焔さんの隣で、溢れる想いを整理しながら手紙を書き綴る。


「ほむらサマー」


沈黙を明るく引き裂いて、龍海ちゃんが跳ねてきた。

焔さんは本を閉じ、無言のまま龍海ちゃんを迎える。

私も何となく、顔を上げた。


「おきゃクさまがいらっしゃいましタよぉー」


お客様?

正直、ここには誰も尋ねてこないと思っていたので、意外だと目を瞬かせた。


「誰だ」


根谷ねや様デす」


龍海ちゃんの返答に、焔さんは顔色を変えた。

それは一瞬喜色にも見えたが、その口端から漏れた声は低かった。


「、のヤロウ…」


初めて聞く焔さんの低い声に、筆を取り落とさなかった自分を褒めたい。

思わず縮こまりたくなる程、その声は怖かった。


「通せ。一人か?」


「はい。お一人デす。お通ししマすねー」


やっぱり龍海ちゃんも只者じゃないというか、強かというか。

恐怖のきの字も見せないで、にこにこと退室した。

ちらりと焔さんを見ると、額に手を当てて俯いていた。

とても楽しそうな雰囲気とは思えない。


「私、退室したほうがいいですか、ね…?」


恐る恐る声をかけたら、緩慢な動きでゆらりと顔を上げてくれた。

もう見慣れた紅蓮の目が、先程の覇気を感じさせないほど弱く揺れている。

なんだか憔悴している様子の焔さんだが、私を視認して、ゆるりと手を伸ばしてきた。

余りにも可笑しいその様子に、筆を置いてこちらからも手を差し出した。


差し出した私の手にすがるように、甘えるように焔さんの手が絡みついてきた。

指先ほどしか触れ合ったことのない熱に、思わず手を引っ込めそうになるけれど我慢。

白くて大きな手は、思いの外暖かくて優しかった。


「…すまないが、側にいてくれないか…?」


ようやくぽつりと落とされた声は、余りにも小さくて聞き流しそうになった。

まるで夜の闇に怯えている子どものようだ。

私よりはるかに大きい背中が、今は小さく丸くなって、私の影に隠れようとしているみたいだ。

縋るように握られた手を、私が振り解く理由はない。


「はい。ここにいます」


握られた手を握り返して、少しでも落ち着いて貰おうとゆっくり答えた。

俯いている顔を覗き込んでみれば、眉根を潜めて悲しんでいるような、苦しんでいるような焔さんが見えた。

両の手をきつく握られて、私はその頬を撫でることもできない。

だけど、初めてこの鬼が、このヒトが、護らなきゃいけない大事なモノに見えて。

胸に沈むコレは、何だろうか…。


足音が二つ、近づいてきて。

龍海ちゃんの声とほぼ同時に、戸が開けられた。

それに合わせて、焔さんが遠のいて、小さかった背中は大きくなった。

もうそこには、見慣れたいつもの焔さんがいた。

するりとあっさり離れた手の温もりに、どきりとする。


「よ、久しぶりじゃねーの?」


次いで飛んできた声は、聞き覚えのない男のものだった。

戸の向こう、龍海ちゃんの後ろをついて来たのは、龍海ちゃんの背ほどもある、大きな大きな犬だった。

当然のように人の言葉を使っている。魔物、だろうか。


「あ、それがお前のツガイなわけ?」


誰の返事もないうちに、犬は溌剌と続けた。

水色の澄んだ大きな目が、私をじっと捉えている。

茶色の毛並みはお世辞にも綺麗とは言い難く、デカさも相まって正直あんまり撫でたくない。

先ほどの焔さんの雰囲気とは正反対に、この犬は明るくて元気だ。


「へェ。ヒト型の生物の年齢って見分け付かねーんだけど、頭白いってことはババアなの?」


そして随分失礼だ。

ぶんぶんと尻尾を振り回す様は犬そのものだが、いかんせんデカさが尋常じゃない。

見慣れたそれらなら微笑ましいで済むその仕草も、ここまで大きいと最早暴力だ。

何も言わない焔さんが心配になって、焔さんを見上げる。

そして後悔する。見なきゃよかった、と。


とおる


たった一言のそれが、部屋の空気を凍らせた。

透と呼ばれた犬は、即座に耳が垂れた。

ついでに凶器じみた尻尾の動きも止まった。

どうしよう、可哀想と思う余裕がない。


焔さんはまだ犬に背を向けていて、つまり私の方を向いている。

この姿をきちんと見る前に大人しくなったのは英断だと思うぞ、犬。

私この年にしてちびるかも知れないとか考えてるからね。

立ち上る怒気は隠されもせず、焔さんを覆っている。


「透」


「っハイ!」


再び焔さんに呼ばれて、今度こそ返事をしたワンコ。

というか焔さんや、今言葉と共に口端から溢れたのは炎ですか?

よだれじゃないですよね、どう見ても炎でしたよね。

赤い紅い炎が、蛇の舌のようにちろちろと、焔さんの口端で揺らめいている。

ワァー色っぽいカモー。とかいう思考はどう考えても現実逃避だ。


「随分だな。半年か?」


ドスの効いた声に、ワンコの背中の毛が逆立っている。

龍海ちゃんと目が合った。

彼女は遠い目をしていて、助けてくれる気配がない。


「半年か?」


「そ、だな! 一年かな!」


繰り返される言葉に、ワンコが返事する。

もはや脊髄反射かという反応だ。

ワンコの視線がこちらを向いた。だが残念。私も無力だ。

目と言わず全身から救難信号を出すワンコには悪いが、私にできることはない。

だってそもそも、何でこの鬼がこんなに怒ってんのか、私知らんのよ。


「何か」


焔さんの一言一言に、なんで私まで一緒になって怯えなければならないのか。

やっぱ退室しとけばよかった。超絶後悔。


「言うことが」


というより、先ほどのしおらしい姿はどこへ消えたの。

私幻覚でも見たんですかね。


「あるんじゃないか?」


ヤバい。恐怖のあまり焔さんが何を言ってるのか分からなくなってきた。

あ、まって龍海ちゃん、私を置いて行かないで!


「え、と…。えー……?」


先程までの返答はどうしたワンコ!

これでもかというほどワンコの目が泳いでいる。

ワー、ナンカ居タ堪レナイナー。ワタシモ退室シタクナッテキタナー。

椅子から立ち上がろうかと身動ぎしたら、刹那の間に手を取られた。

犯人は言わずもがな、目の前の鬼だ。


「っ……!」


悲鳴を抑えた私を誰か褒めろ!

恐る恐る再び鬼の顔を確認する。

と、不思議なほど恐怖が消えた。

やっぱりワンコ、この顔を見た方がいいかもよ。


「無いのか」


ちらちらと燃えていた炎はもうどこにも無く。

先ほどのような、迷子の子どもみたいな目をした鬼が、ただ佇んでいた。

声も心なしか、先程より覇気がない。


「ならば、何用で来た」


その声は、もう何いつもの平坦な声だった。

だけど、いつもよりはるかに寂しそうな声をしていた。

いつもよりずっとずっと、悲しそうな顔をしている。

怒っているようにしか見えなかった剥き出しの牙は、自分の唇に突き立てられている。

それは怒りなんかではなく、悲壮そのものだ。

痛いほど握りしめている私の手に、何故だか悲痛な想いが伝染していくようだ。


「今更、何用で現れた…っ」


ついに焔さんの声が悲痛でかすれた。

そこでようやく、ワンコは焔さんの異変に気づいたのか、片耳がぴくりと動いた。

だが、言葉はないまま、つい、とワンコは項垂れた。


私は完全にとばっちりだけど、二人がちゃんと見えているのも私だけだ。

焔さんはこのワンコが見えてないし、ワンコには焔さんの顔が見えてない。

何だかすれ違いが起きている気がして、焔さんの手を引いた。

はっとしたように、焔さんは私を見た。

捨てられる犬猫のように、焔さんの目は荒んで傷ついて苦しんでいる。


だから私は、努めて笑った。

出来る限り、優しく。


「焔さん、お客様と、ちゃんと向き合った方がいいですよ」


私の出した声は貧弱で小さくてかっこ悪かった。

声と同じくらい弱い力で、焔さんの手を引いた。

そうしたら、焔さんは非常に大人しく、私の手に従った。

ゆるゆると振り向いた先に、しおらしく項垂れるワンコがいる。

それをみた赤い目が、後悔と悲痛を宿したように見えた。


「透」


再びかけられた言葉におずおずと顔を上げたワンコの目にも、後悔と悲壮が揺れていた。

いくつかの言葉を選んで、飲み込んで、それから、焔さんはようやく口を開いた。


「よく来たな」


ようやく渡された言葉は、柔らかくて穏やかだった。

ほ、と思わず息をついた。

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