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14 ただいま

ひーひー言いながらなんとか屋敷についた頃には、もう日も沈みかけだった。

…ひーひー言ってたのは私だけですけど。

今なら、何で龍海ちゃんがあんなに爆笑してたか解る。あの時の私の発言は片腹痛いわ。何様じゃ。


茜色に染まった空と、長く伸びた影。

こんな光景を、前世の記憶にほとんど持っていない。

地球という世界には、夕焼けが無かっただろうか。

木々の葉の隙間から刺すように届く、一日の終わりの、最後の日光。

それが、幼い頃父が教えてくれた『太陽の死』ではないことを、私はぼんやりと知っている。


ニブフイエでは、一日の終わりに太陽が死ぬと考えられている。

逆に、朝は太陽が生まれるのだと。

大きな山を西に抱き、その山を壁に、この国は他の国から隔離されている。

東の海の果てから登る太陽は、西にそびえる山に降りて消える。

故に、東の海を神の生まれる場所と呼び、西の山を神の還る場所と呼ぶ。


その大きな山は代々、国を統べる帝様の一族が所有し、誰もそこへ立ち入らない。

その山は神様の休息所であって、人の立ち入るところではないから。

そして何より、神々の持つ魔が一人歩きした山ノ怪が、魔のない人間を食べてしまうから。

その約束を破って山に入った者は、神の怒りに触れて、大鬼オーク小鬼ゴブリンになるのだという。


信じるとか信じないよりずっと根底にあった、神話のような御伽噺。

雷が鳴ったら、雷様がへそをとりにくるから隠しなさい、と言われるような。

それが嘘だと解っていても、雷が恐ろしいように。

西の山と東の海は、立ち入ってはいけないのだと刷り込まれていた。


山に降りるという太陽は、今まさに山の向こうへ消えようとしている。

さわさわと頬を撫でる風が、昼間より冷たい。

今頃東の海の果てでは、夜が生まれているのだろう。

太陽と夜の狭間を、茜の刻(あかねどき)という。

人類と敵対している魔物の多くは、この茜の刻(あかねどき)に生まれると信じられている。

…まあ、一般的には夕方なんだけど。


ざわりと胸騒ぎのようなものがして、思わず身震いする。

山道を一生懸命登ったので、寒いどころか暑いくらいなのに。


「ホタルさま、朽葉、龍海、おかえりなさイ」


ぼーっと山の上を眺めていたら、立派な門からぱたぱたと足音と共に声が。

夕焼けの化身だと言われたら信じたくなるような、茜に染まった少年が笑っていた。


「ただ今戻りました」


「ただイまー」


朽葉さんも龍海ちゃんも、微笑んで門を潜った。


神の還る場所だと言われていた山は、たった一人の鬼を閉じ込めていた。

閉じ込めるための、大きな大きな檻だった。


「…ただいま、です」


そうか。そういう意味では、私もここに閉じ込められたということか。

広いし快適だし解放的だし、花も木も沢山あるし、鬼も鬼女も龍の双子も優しいし…大した不満はないけどね。

挨拶一つで、私は私の帰る場所を再認識した。

もうここにしか私の居場所はないと、朝にも昨夜にも、自覚したはずなんだけどなぁ。


「箪笥は明日になりますが、それ以外は今日から使っていきましょうね」


「ありがとうございます、朽葉さん」


昨日の昼に初めてこの門を潜ったのだ。

その時は、自分が何者になるかも知らずに。


「…ただいま」


二度目にこぼした言葉は小さすぎたけど、自分に言い聞かせるものだ。

ここが、私の家なのだと。


「ああ、おかえり」


真横から飛んできた声に思わず自分の方が飛び跳ねた。

低くて艶のある男の声。

平坦で冷たいようでいて、どこか優しい声。

今朝あった寝癖は流石に治されたらしい。

茜色の光を反射させる真っ黒な髪と、夕焼けの中にあって尚輝く紅蓮の瞳。


焔さんが、いた。


「本当に、自分の物は自分で持ったんだな」


つい、と落とされた視線が私の持つ小さな荷物につながれた。

表情は無く、声も平坦だが、怒っているわけではなさそうだ。多分。


「いえ、でも、まぁ…大きいのは、流石に無理でした」


あはは、と笑ってみるが、焔さんは笑わない。

じっと私の顔を見ているが、間違っても慈しむような熱はない。

どちらかといえば、研究対象のネズミを見てるみたいな…。

自分で考えて悲しくなったけど。


「…逃げなかったのか」


ぼつりと落とされた言葉をなんとか拾った私の耳は優秀だ。えへん。

だがそれを処理する頭の方は残念としか言えない。しょぼん。

焔さんが何を言いたいのか解らない。

首を傾げてみても、解らないものは解らない。


逃げなかったのか、って…。

今朝も軽くその話は出たけど、私は逃げないって言ったはずだ。

焔さんだって、そうか、って言ったし。

…まさか信じて貰えてなかった、とか?

どうせここ以外に帰る場所なんて無い私が一体何処に逃げると思ってるんだろうか。


「逃げませんて」


おかしなことを言う鬼だ。

今のところ、私には不幸や災いの類は一切ない。

むしろ、なんかお世話になりっぱなしだ。

そして私にはもう他に行く当てすらない。

これで、どうして逃げようなどと思えるのだろうか。


「そう、か」


焔さんは今朝と同じことを言った。

だけど、今朝より雰囲気が柔らかく感じたのは、茜色の光のせいだろうか。


「これからも、逃げないのか?」


確認のようなその質問の真意は解らない。

本当に確認かも知れないけど、私の逃亡は彼にとってそんなに重要な事なのだろうか。

指を顎に当て、こてりと首を傾げてみたが、やっぱり解らないものは解らなかった。


「逃げる理由はありませんし」


やっぱり、腹芸は苦手だ。

母も父も、出来るようになれと言ってたけど。

基本大雑把な私には、腹芸なんて芸当は逆立ちしても出来ないだろう。

だからやっぱり、質問には正直に答える他ない。

太陽が山に完全に隠れたのか、急に辺りが暗くなる。


「理由があれば、逃げるのか」


茜に輝いた全てが、夜の紺色に染まっていく。

焔さんの瞳の光だけは、きらきらと僅かな光を反射させている。

珍しく続いた問いは、薄いやいばのような鋭さを持っていた。

理由があれば、って…。


「まぁ、多分?」


「どのような?」


反応が早い。テンポ可笑しい。

ええ、何? 何、怒ったの? だとしたら何で?

気難しすぎん? この鬼解りづらいよ。


「わか、りませんけど…」


相変わらず私は本音を差し出すことしか出来ない。

困惑したままそうすると、焔さんの雰囲気が和らいだ。気がする。

強い光を持っていた瞳が、ゆらりと揺らいだ。


「………」


言葉は無いまま、焔さんは屋敷へ向かった。

やっぱり怒らせてしまったんだろうか…。

妙に気まずい。


「奥様、茶碗を下さらないと洗えませんわ」


「、はい! はいはい」


朽葉さんの声に、返事をする。

私が今日選んだ食器たちが、かちゃりかちゃりと鳴っている。

今日から使う、私のものだ。

私がここで、これから生きるために使う、私のものだ。

だから私はきっと、何があっても、ここから『逃げる』ことは無い。


「焔さん」


夜の闇を背負う背中に、声をかける。

屋敷の明かりが眩しく見える。

僅かに顔だけで振り返った焔さんが、どんな顔をしてるかわからない。

だけど、ここで怯んでちゃいけない。


「私、逃げませんよ」


逃げませんとも。

例えこの先、逃げたくなることがあっても。

逃げることは、ないと決めた。

だから、宣言する。


「逃げる前に、相談します」


私はこの鬼の嫁なのだ。

逃げるなんて酷いことを、出来るはずがない。

出来るはずがないのだ。


「…そうか」


また同じ返事だ。

でも、今度こそ、その声が柔らかな事に気付けた。

それがなんだか嬉しくて、思わず笑みが溢れてしまう。


流石朽葉さんと言うべきか。

魚の焼けるような香りが漂ってきている。

ようやく私は、我が家へと足を踏み入れた。

ああ、茶碗を早く届けなきゃ。

 

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