第8話 継承
白銀の甲冑に身を包んだシアは、親衛隊員として王都の巡回路を歩いていた。 視線の先には、午後の柔らかな光に包まれた市場が広がっている。
湯気を立てるパン屋の店先。鎚の音を響かせる鍛冶場。路地の隅で、転んだ幼子を母親が優しく抱き起こす姿。かつてのシアであれば、視界の端を通り過ぎていくだけの風景だった。 シアはふと、足を止めた。
「隊長さん……あ、いや、失礼。まだお若いのに頼もしいなと思ってね」
威勢よく声をかけてきたパン屋の主人が、気さくに笑いながら焼き立てのパンをひとつ、紙に包んで差し出してくる。シアは黙ってそれを受け取り、小さく頭を下げた。
遠くで子供たちの笑い声が弾けている。 その賑やかで、ささやかな営みを、シアはただ静かに見つめていた。
(……守りたい)
言葉には出さず、胸の奥でだけ、そっと呟いた。
非番の日。シアはかつて育った街外れの孤児院を訪れていた。 庭に足を踏み入れた瞬間、泥だらけになった子供たちが一斉に駆け寄ってくる。
「シア姉ちゃんだ!」
その中で一人の少年が、自慢げに木剣を突き出してみせた。
「見て、シア姉ちゃん! 僕、毎日素振りを練習してるんだ。いつか、姉ちゃんみたいに王様を守る格好いい騎士になるんだ!」
少年の目の前で、シアはゆっくりと腰を落とした。 泥で汚れた小さな頭に手を置き、静かに撫でる。その手つきは、壊れものを扱うようにどこまでも優しかった。
(……あなたは、騎士にならなくていい。この温かな泥の匂いの中で、笑って生きていてほしい)
心の中でそう願いながら、シアはほんの少しだけ口元を緩めた。
「元気でね、シア」
引きあげる間際、門の前で見送る年老いた院長が柔らかく微笑んだ。
「はい。」
シアは短く答え、静かに一礼して孤児院を後にした。
王宮の奥深く。重厚な扉の向こうでシアを待っていたのは、自力で立ち上がることすら叶わなくなった老王の姿だった。侍従に身体を支えられながら、ヴァルフォード王はベッドの上に腰かけていた。
シアは膝をつき、深く頭を垂れる。
「シア」
かすれを含んだ王の声が響く。
「……覚えているか。初めて会った日のことを」
「はい。」
王は静かに呼吸を整え、シアを包み込むような慈愛の眼差しで見つめた。
「そなたはこの一年、ナスルーラの傍らで、よくこの国を守ってくれた」
長い間が落ちる。
「……だから今日からは、この国を背負ってほしい」
王は震える手を伸ばし、シアの肩へ優しく触れた。
「本日より、そなたを王国親衛隊長に任ずる。……余から名を贈ろう。『ロードン』だ」
シアが顔を上げる。王は小さく頷いた。
「守る者に与えられる名だ」
「……シア・ロードン。謹んで、この名と重責をお受けいたします」
胸の奥のプリンスローズは、不気味な脈動すら起こさず、ただ深く沈黙していた。その静寂を、シアは純粋な祝福として胸に刻んだ。
謁見を終え、シアは誰もいない静かな回廊を一人歩いていた。 ひんやりとした石造りの壁に囲まれながら、自らに授けられたばかりの名を、唇の中で小さく呟いてみる。
「シア・ロードン……」
まだ、自分のものとは思えない感覚。 その時、向こうから歩いてきた侍女が、シアの姿を認めるとその場で深く頭を垂れた。
「隊長殿」
短く、敬意の込められた一言。 すれ違いざまにかけられたその言葉に、シアはほんのわずかに足を止め、息を呑んだ。
(……ああ。私は、本当に隊長になったんだ)
肩にのしかかる重みと、不思議なほど静かな感覚が、シアの全身を満たしていった。
夕刻。シアは再び孤児院の前に立っていた。 夕日を受け、庭からは子供たちの賑やかな声が響いている。
「シア姉ちゃん、これあげる!」
走ってきた小さな少女が、小さな手でシアの掌に何かを握らせた。不格好に編まれた、シロツメクサの指輪だった。
「ありがとう」
シアは膝をつき、そっと微笑んだ。掌の上の草の指輪は、少女の体温で温かかった。
「隊長さんになっても、また来てね!」
少女が顔を見上げて言う。 シアは少しだけ考え、それから静かに頷いた。
「うん」
帰り道。王都を染める夕焼けの中を、シアは一人歩く。 掌の中の小さな指輪を、そっと握りしめた。遠くから、夕食の支度をする匂いや、子供たちの笑い声が風に乗って運ばれてくる。
シアは前を見据えた。
(守る。)
夕陽に染まる王都の街並みが、どこまでも優しく広がっていた。




