第55話:長い夜の終わり
議会が終わり、議員たちは去った。
あれほど熱を帯びていた広大な議場には、いまや静寂だけが満ちている。台座の上に佇む皇帝エドワードと、高壇に一人立つルキウスだけが残されていた。
ルキウスは静かに議長席を降りた。
一段ずつ石段を下り、皇帝の前まで歩み寄る。
そして、ゆっくりと膝を突いた。
議場を包む、長い沈黙。
ルキウスはゆっくりと口を開いた。
「陛下……」
一度、言葉を止める。
自嘲するように、小さく笑った。
「……いえ、先生」
皇帝は何も言わない。ただ静かに、膝を折る弟子を見つめていた。
ルキウスは俯いたまま、言葉を継ぐ。
「私は……」
「どこで、何を間違えたのでしょう」
長い沈黙。
皇帝はすぐには答えなかった。
膝を突くルキウスを見つめ、小さく息をつく。
「……難しい問いだ」
その一言だけが、広い議場に深く落ちた。
「だが、一つだけ言える」
皇帝は穏やかに続ける。
「お前は、一度も間違いなど犯していない」
ルキウスが顔を上げた。その瞳に、激しい動揺と戸惑いが走る。
「一度も間違いを犯さなかったことが」
「唯一の間違いだった」
ルキウスは言葉を失う。
皇帝は穏やかな声で続けた。
「お前は誰よりも正しくあろうとした」
「……だが、それはこの世の全てじゃない」
沈黙が二人を包む。
「先生……」
「私は……」
声の震えるルキウスに対し、皇帝は静かに首を横に振った。
「責めているのではない」
「知らなかっただけだ」
「……それだけだ」
ルキウスは息を呑んだ。
見上げる皇帝の眼差しは、どこまでも柔らかかった。
静寂の中で、ルキウスの脳裏に遠い記憶が鮮やかによみがえる。
皇帝に選ばれなかった日。
父の沈黙。
そして、背中に残されたあの日の言葉。
今、すべての線がひとつに繋がっていく。
父は最後まで自分を見捨ててなどいなかった。
あの日、自分に足りなかったのは結果でも才能でもない。
ただ――「正しさ」の先にあるものを、まだ知らなかった。それだけだったのだと。
一筋の涙が、ルキウスの頬を静かに伝った。
声を震わせる。
「……先生」
ルキウスは長い間、何も言えなかった。
「私は……まだ、分かりません」
エドワードは静かに頷いた。
「それでいい」
ルキウスが顔を上げる。
「分からないものを、分からないまま残すことも、人には必要なんだ」
「……それでは、判断できません」
「判断を急がなければいい」
ルキウスの瞳が揺れた。
それは彼にとって、生涯で最も恐ろしい言葉だった。――迷ってもいい。
かつて決して許さなかった選択肢が、初めて目の前に置かれていた。
「先生……」
「まだ……間に合うでしょうか」
ルキウスは、もう一度深く頭を垂れた。
「父はもう、いないけれど……」
皇帝が穏やかに微笑む。かつて幼いルキウスへ学問を教えていた頃と変わらぬ、優しい笑みだった。
「さあな」
少しだけ、目を細める。
「だが……明日も生きるなら」
「……やり直す時間はある」
ルキウスは声を上げなかった。
ただ静かに頭を垂れ、溢れ出る涙を止めることができなかった。
皇帝は何も言わず、膝を折るルキウスの肩へそっと手を置いた。
ドーム状の天井の高窓から、淡い朝の光が差し込み始めていた。
長い夜が、静かに明けていく。




