第6話 王の眼差し
武闘大会の興奮がいまだ冷めやまぬ王都。
史上最年少での優勝という快挙は瞬く間に広まり、民衆は「神に愛された少女騎士」の誕生を熱狂的に迎えていた。
しかし、喧騒から切り離された王宮の回廊を歩くシアの心は、冬の湖面のように冷たく静まり返っていた。
(……私は、誰なんだろう)
握りしめた掌には、いまだにあの不気味な寒気が残っている。
勝利の瞬間、自分の体を使って剣を振るったのは、本当に自分だったのか。
思考を遮るように、重厚な扉が開かれた。
玉座の間。
正面の高く聳える玉座には、この国の主、ヴァルフォード王が鎮座していた。
その傍らには、第一王女ナスルーラが静かに控えている。 シアは玉座の前で膝をつき、深く頭を垂れた。
「面を上げなさい、シア。窮屈な思いをさせてすまないな」
頭上から降ってきたのは、春の陽だまりのように穏やかな声だった。
顔を上げたシアを待っていたのは、厳格な統治者の顔ではなく、孫娘を見守るような慈愛に満ちた老王の微笑みであった。
王はよろりと身を起こすと、歩み寄ってシアの汚れた手を、自らの震える両手で優しく包み込んだ。
「そなたの剣は、誰かを傷つけるためのものではない。この国の平和を守りたいという、そなたの『願い』の形なのだと、余は信じているよ」
その瞬間、シアは息を呑んだ。
王の温かな手に触れられた瞬間、胸の奥で渦巻いていたあの寒気が、嘘のように霧消していく。
それは、自分がまだ「人間」でいられるような、甘く切ない安らぎだった。
孤児として育ち、得体の知れない力に魂を削られ始めた彼女にとって、王の慈悲は何物にも代えがたい精神の拠り所――。
(ああ……この方のそばにいたい。この光の中にいれば、私は壊れずに済む)
その願いは、忠誠と呼ぶにはあまりにも静かで、あまりにも切実だった。
もし、この温もりを失えば、自分はもう元には戻れない。 そんな予感だけが、胸の奥に深く沈んでいった。
この方のためなら――。
その先を考えようとして、シアは静かに目を伏せた。
王は儀礼剣をシアの肩に置き、静かに宣言した。
「シア。本日より、そなたを王宮騎士として任じる。……指示は一つ。我が娘ナスルーラの傍にあってほしい。彼女の笑顔が絶えぬよう、そなたの清き心が、彼女の支えとなってくれることを期待しているよ」
叙任の剣が肩を叩く。
その瞬間、控え室に置いてきたはずのプリンスローズが、まるで王の言葉を拒絶するように、彼女の心臓と共鳴して激しく脈打った。
だが、今のシアにとってその痛みすらも、王への誓いを胸に刻む証のように感じられた。
叙任式の数日後。
王宮の練兵場には、鋭い風切り音が絶え間なく響いていた。
周囲を取り囲むのは、百戦錬磨の親衛隊騎士たちだ。彼らの眼差しには、史上最年少騎士への純粋な期待と、隠しきれない対抗心が煮え立っていた。
「次、お願いします」
シアの声は静かだった。
打ちかかるベテラン騎士たちの剛剣を、シアは最小限の動きで受け流し、目にも止まらぬ速さで相手の喉元に剣先を突きつける。
(……まただ。私は、今の動きを自分で選んだのか?)
息を切らす相手をよそに、シアの呼吸は乱れすらしない。
王の温かな手を思い出すたび、彼女の剣は迷いを失っていく。
それは安心なのか、それとも何か別の力なのか、シア自身にも分からなかった。
周囲の騎士たちは、戦慄していた。 彼女の剣には、若さゆえの熱も、迷いも、人間らしい揺らぎもない。 ただ勝利という結果だけが、淡々と積み重ねられていく。
「……怪物か、あれは」
誰かが漏らした呟きを、降り始めた雨の音が消していく。
シアは一人、稽古が終わった後の冷たい沈黙の中で、自分の掌を見つめていた。あの温もりが胸から薄れた瞬間、襲いかかる自己消失の恐怖。
降りしきる雨の中、彼女は次の救いを求めるように、遠く王宮の奥を見つめていた。
その瞳には、もはや戦う喜びも、痛みへの恐怖も映ってはいなかった。雨音の向こうで、ナスルーラの笑い声が小さく響いていた。
(……大丈夫)
そうだ。
この国には、守る価値がある。
王の慈悲も、王女の笑顔も、子供たちの未来も。
だから私は、いくらでも彼らの剣になれる。
それで、この国が笑っていてくれるのなら。
シアは静かに目を閉じた。
雨に濡れるその横顔は、ひどく穏やかであった。




