第53話:剣ではない
王都を発ってから、数日が過ぎていた。
街道を打つ馬蹄の音が、規則正しく響いていた。
中央街道の喧騒と血煙は、すでに遥か後方へ遠ざかっている。これまで追手の姿はなかった。ルキウスの私兵騎士団は、一度崩れた陣容の立て直しと補給線の再構築に追われているのだろう。
それでも、三人は一度も警戒を解かなかった。
先頭を駆けるのはエル。そのすぐ後ろに、ナスルーラとシアが並んで続く。三騎の影が、傾きかけた陽光を受けて街道に長く伸びていた。
道中、会話は極めて少なかった。各自がこれから向かう場所――帝国の心臓部である「帝都」の重みを噛み締めていた。
少し馬を速め、エルの斜め後ろに並んだシアは、ちらりとその横顔を見た。エルの横顔は引き締まり、その瞳はまっすぐに前方の地平線を見据えている。もうそこには、戦場の剣士としての熱量はなかった。
エルが、前を向いたまま口を開いた。
「ここから先は、剣ではない」
低い、だが通る声だった。
「……うん」
シアは短く頷いた。
プリンスローズの柄に添えた自分の指先を見る。 敵を切り伏せ、陣形を穿つための力では、これから始まる戦いには勝てない。たとえ道を塞がれても、そこで剣を抜けば、すべてが終わる。 これから立ち向かうのは、血を流さぬまま国を動かす「言葉」と「法」の戦いだった。
「使者は出さない」
エルが前を見据えたまま言った。
「書状もない」
シアは思わずエルを見た。
「……大丈夫なの?」
ナスルーラは鞍の脇に括り付けられた長剣へ、静かに手を伸ばした。飾り気のない、重厚な鞘。
「これは、父の愛剣です」
ナスルーラは愛おしそうに鞘の革を撫でた。
「皇帝陛下なら、この剣をご存じです。……父は、皇帝陛下を信じていました」
エルは短く頷いた。
「それで十分だ」
「書状は偽れる。使者も止められる。だが、その剣とあなた自身を前にしてまで、陛下が話を聞かないことはない」
前方を見据えたまま、エルは言葉を重ねた。
「陛下なら、分かる」
その声は静かだった。だが、揺るぎはなかった。
風が吹き抜ける。
やがて街道の先に、帝都を囲む巨大な城壁が姿を現した。夕日を受けた石壁が、赤黒く染まっている。
「行くぞ」
エルが馬の腹を蹴った。
三騎は速度を上げ、夕日に染まる城壁へ向かった。 やがて、帝都の重厚な城門が三騎の前に立ちはだかった。夕闇が迫る中、門を固める兵士たちが馬上の人影に気づき、ハッと姿勢を正す。
「兵団長、お帰りなさいませ」
皇帝直属兵団長――エル・シャーリー。
門衛たちは反射的に敬礼した。だが、その直後、互いにわずかに視線を交わす。王都総督を解任されたという報せは、すでに帝都にも届いている。
それでも、兵団長としての地位を剥奪されたわけではない。
「開門!」
命令が下り、重い城門がゆっくりと開き始めた。
三騎は帝国の心臓部へと足を踏み入れた。 そのまま大通りを駆け抜け、帝都中央にそびえる皇城へ向かった。 皇城の門でも、兵団長であるエルを止める者はいなかった。
三人は馬を預け、重厚な石造りの廊下を歩き始めた。行き交う兵士や文官たちは、エルの姿を認めると道を開いた。だが、その視線だけは静かに彼の背を追っていた。
不穏な気配だけが、三人を取り巻いていた。エルは気にする素振りも見せず、一定の歩調で奥へと進んでいく。
帝国の最高意思決定機関――帝国議会。
その精緻な意匠の施された巨大な扉の前に到着した。扉の両脇には、全身を重装で固めた近衛兵が佇んでいる。扉の奥からは、かすかに何十人もの人間が議論を交わす重苦しい地鳴りのような声が響いていた。
エルが歩み寄る。
二本の槍が、音もなく交差した。
「……兵団長」
「申し訳ありません。現在、議会開催中です」
「承知している」
エルは一歩も引かず、静かに告げた。
「皇帝陛下に急ぎ申し上げる」
「議場への立ち入りは許可されておりません」
近衛兵の視線が、エルの背後に控えるシアと、マントを深く羽織ったナスルーラへと注がれた。
「……そちらのお二人は」
「私が責任を持つ」
「申し訳ありません」
兵は頭を下げながらも、槍を固く握り直した。
「議長閣下の命なくしては、お通しできません」
重苦しい沈黙が落ちた。
廊下の空気が張り詰める。
シアの右手が、反射的に腰のプリンスローズの柄へ伸びかけた。
その手を、エルが指先だけで制した。
「抜くな」
シアはハッとして、エルを見る。
「ここから先は、剣ではない」
エルはシアを見ず、前を見据えたまま告げた。
シアは柄から指を放し、静かに呼吸を整えた。
エルは近衛兵を静かに見据えた。
やがて、低く命じた。
「どけ」
怒鳴り声ではない。荒らげた感情もない。それでも、近衛兵は息を呑んだ。
「……できません」
額に汗が伝う。それでも、槍は動かなかった。
扉の向こう――円形劇場のように広がる巨大な議場の中央では、ルキウスが登壇し、ヴァルフォード統治に関する議事を整然と進めていた。
その時、重厚な扉の外から、微かな押し問答の気配が漏れ聞こえてきた。
「……何事だ」
議員の一人が不審そうに振り返り、ざわめきが広がった。壇上のルキウスは僅かに眉をひそめ、冷徹な声で命じた。
「確認を」
一人の近衛兵が静かに退室し、外の状況を確かめに向かった。数秒後、戻ってきた兵の顔色は明らかに変わっていた。ルキウスへ駆け寄り、声を潜めて報告する。
「兵団長エル・シャーリーです」
議場が一瞬でざわついた。
ルキウスはわずかに目を細める。 エルが自ら議場まで来た。許可も、書状もなく。
ならば、背後にいるのは、規則を破ってでもここへ連れてくるだけの人物ということになる。
短い沈黙。
「……通せ」
近衛兵は一瞬だけ目を見開いた。
「よろしいのですか」
「ここは議会だ」
ルキウスは冷静に告げた。
「何を持ち込んだのか、まず確認する」
「はっ」
重厚な扉が、ゆっくりと開かれた。
夕日の差し込む入口から、三つの影が足を踏み入れた。
先頭にエル。その斜め後ろにシア、そして長剣を抱えたナスルーラ。
議場を満たすすべての視線が、一斉に三人へ注がれる。三人は静かに、しかし確かな足取りで中央の絨毯の上を歩いた。
誰も喋らない。言葉を失った議員たちと、台座の上に座す皇帝エドワード、そして壇上に立つルキウス。張り詰めた長い静寂が、議場を支配していた。
ルキウスはエルを見た。エルもまた、ルキウスを見る。
張り詰めた沈黙ののち、ルキウスが静かに問いかけた。
「……なぜ、ここに?」
怒りではない。エルの選択、その理由を問う声だった。
エルはルキウスの問いには答えず、ただ一歩前へ出た。高壇の皇帝へ向かって深く頭を下げ、告げる。
「後ほど、いかなる処分も受けます」
議場から私語が消えた。
エルはゆっくりと身体を起こすと、半歩退いた。そして、後ろに控えていた人物へ道を譲る。
「ヴァルフォード王国第一王女――ナスルーラ殿下です」
エルの声が議場に響き渡る。
その背後で、マントを深く羽織っていた人物が、静かにフードを外した。
ナスルーラは一歩ずつ前へ進み、議場の中央で足を止めた。ルキウスと、真正面から向き合う。
議場の中央で、ナスルーラは両手を前に重ね、静かに一礼した。
ゆっくりと身を起こし、高壇を見据える。
「私は、ナスルーラ・タン・ノーザ・ヴァルフォード」
声がドーム状の議場に響く。
「ヴァルフォード王国第一王女です」




