第52話:それぞれの守るもの
中央街道は、すでに惨劇の場と化していた。
「盾を立てろ! 押し返せ! ここで止めろ!!」
ネアルコの怒号が、風切り音と悲鳴の交錯する戦場に掻き消される。
路上には、打ち捨てられた荷車や倒木を組み合わせた即席のバリケードが築かれていた。だが、そんな突貫の防壁など何の気休めにもならなかった。
重く湿った風切り音の直後、分厚い木盾が砕け、構えていた王国兵の身体ごと後方へ吹き飛ばされた。
「ぐああああっ!?」
「ほ、北方製の弩砲だ! こんな射程、こっちの弓じゃ届かない……っ!」
目を凝らした先、街道の奥には、北方製の大型弩砲――バリスタが黒い巨躯を並べていた。そこから死の矢が交互に飛来する。
王国の弓矢では、敵陣の手前にすら届かない。肉迫することすら許されず、遠距離から一方的に磨り潰されていた。
「ひるむな! 下がるな!!」
ネアルコは血煙の中で剣を振るいながら、奥歯を強く噛み締めた。
(ルキウスの野郎……本気だ)
「隊長! バリケードが持ちません! 撤退の指示を――」
血を流す部下の訴えを、ネアルコは一言で切り捨てた。
「アホか! ここで引いたら城下が蹂躙されるぞ!」
ネアルコは血濡れた額の汗をぐっと拭うと、前方の敵陣を睨み据えた。矢の装填にはわずかな隙がある。ここにまとまっていれば、敵の思う壺だ。
「全員、聞け! 散開するぞ!!」
「え……!? さ、散開……!? 散開したら狙い撃ちです!」
「黙って従え! 乱戦に持ち込む!」
兵たちが息を飲んだ。狙い撃ちされる前に、自ら死地へ飛び込み、距離を詰める。正気の沙汰ではない。
「死ぬ気で走れ! 行くぞオラァッ!!」
バリケードを蹴り飛ばし、ネアルコが真っ先に飛び出した。一瞬の困惑ののち、覚悟を決めた王国兵たちの咆哮が街道に響き渡った。
街道を見下ろす城壁の上には、完全武装した帝国駐留軍の一隊が整列していた。
眼下では、王国軍が血煙を上げながら散開し、無謀ともいえる突撃を敢行している。
「……隊長」
若い帝国兵が、耐えかねたように声を震わせた。
「助けなくていいんですか……! このままでは、王国軍は……!」
隊長は、しばらく答えなかった。
眼下では王国兵が一人、また一人と倒れていく。革手袋に包まれた拳が、わずかに震えていた。
「……私も行きたい」
城壁の上に、短い沈黙が落ちた。
「だが、我々があそこへ出れば、帝国兵同士で刃を交えることになる」
隊長は私兵騎士団の黒い旗を睨んだ。
「そうなれば、これは王都の鎮圧では済まん。帝国兵同士が殺し合う、内乱の始まりになる」
「ですが――!」
「我々には、ここにいる兵の命も、帝国に残した家族もある」
隊長の声は厳しかった。だが、その厳しさは部下へ向けた怒りではない。自分自身へ言い聞かせているようでもあった。
「……だからこそ、今は動かん」
城壁の上に立つ誰もが、無言で眼下の地獄を見つめ続けた。
飛来する矢を転がるようにかわしながら、傍らの兵が叫んだ。
「畜生……! 帝国兵ども、高みの見物かよ!!」
「来ねぇよ」
肩で息を吐きながら、ネアルコが短く応えた。
「あ……? なんですか隊長!?」
「来ねぇ。……来られねぇんだよ」
「……え?」
ネアルコは迫り来る敵の怒号を見据えたまま、どこか寂しげに、だが誇らしげに吐き捨てた。
「あいつらにも、守るもんがある」
「――ったく、言ってる場合かよ!」
ネアルコが迫り来る敵兵の槍を弾き飛ばした、その時だった。
ふっと、隣に気配が生まれた。
何の足音もなく、まるで最初からそこにいたかのように、一人の少女がネアルコと肩を並べるように立っていた。
シアだった。
プリンスローズの刃には、真新しい血が滴っている。
「なんだ、来たのかよ」
ネアルコは視線を正面に向けたまま、不敵に鼻を鳴らした。
「……手柄を独り占めできなくて残念だ」
「……じゃあ、半分」
シアがほんの少しだけ口元を緩めた。
次の瞬間、その姿が敵兵の視界から抜け落ちた。
死角から走る妖しい閃光。敵の前衛部隊がパニックに陥り、陣形が揺らぐ。
「今だぁぁッ!! 畳みかけろ!!」
ネアルコの咆哮に合わせ、王国兵が一気に敵の懐へと雪崩れ込んだ。至近距離での乱戦。味方を巻き込む危険から、弩砲を撃ち込む余地はなくなった。
その混戦の渦中、敵陣本隊の指揮官のもとへ、息を切らした騎士が泥塗れで駆け寄った。
「報告! 城へ向かった例の女が、前線へ戻りました!」
指揮官の目が険しく光る。
「……あの男は」
「姿がありません! 例の女の剣には血が!」
脇に控える副官の顔から血の気が引いた。
「まさか……あのお方が……?」
指揮官は冷徹に戦場を見渡した。
王国軍はすでに懐へ入り込み、弩砲は射線を失っている。城壁上の帝国駐留軍も、いつ動き出すか分からない。
「作戦は失敗だ。全軍、戦闘離脱!」
「ですが指揮官! 敵は目前に――」
「乱戦に付き合えば損害が増えるだけだ! 王女の制圧も、女の排除も失敗した。ルキウス閣下への報告を優先する!」
「撤収だ、急げ!!」
盾兵が隙なく列を組み、その背後で弩兵が交互に後退する。大型弩砲は牽引馬へ繋がれ、最後尾を騎兵が固めた。誰一人として背を向けて走る者はいない。私兵騎士団は整然とした統制を保ったまま、街道の奥へと姿を消していった。
「……退いていく」
誰かが、信じられないように呟いた。
「敵が退いていくぞ!」
「勝った……俺たち、勝ったのか!?」
歓声をあげる王国兵たち。だが、剣を収めたネアルコだけは、退いていく隊列から目を離せなかった。
「違ぇよ……」
「え? 隊長……?」
「あいつらは崩れちゃいねぇ。……退いたんだ」
相手の隙のない判断力に、ネアルコは背筋が冷えるのを感じていた。
喧騒が去り、街道に静寂が戻ってきた。
荒い息を吐きながら、シアは返り血を拭い、静かに剣を鞘へと収めた。
視線が、一斉にシアへ集まった。
シアの指が、わずかに強張る。
(……また、か)
そっと顔を伏せた、その時だった。
「――シア隊長」
力強い声に、シアがハッと顔を上げた。
一人の兵士がまっすぐに自分を見つめ、胸に拳を当てて敬礼していた。
「ありがとうございました、シア隊長!」
一人。続いて、また一人。さらに一人。
やがて、その場にいた王国兵全員が、胸に拳を当て、深く頭を下げた。誰も、聖女とは呼ばなかった。
「……みんな」
シアの胸に、熱いものが込み上げる。シアは胸の前で小さく拳を握り締め、深く頷いた。
その日の夕刻。
王城の一室には、ナスルーラ、エル、シア、ネアルコが集まっていた。
窓の外では、負傷者を運ぶ兵士たちの声が途切れることなく続いている。
エルは胸元に巻かれた包帯を押さえながら、机の上へ一枚の地図を広げた。
「私兵騎士団は敗走したわけではない」
ネアルコが腕を組み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「分かってる。いつでも戻ってこられる退き方だった」
「次は、今日の規模では済まない」
エルの指が、王都から帝都へ続く街道をなぞった。
「ルキウスは議会が動く前に、王都を制圧しようとする。兵を増やすか、別の手段を使うか。いずれにせよ、ここで待っていれば、また攻め込まれる」
短い沈黙が落ちた。
ナスルーラは窓の外へ目を向けた。城壁の向こうには、今日、自分の呼びかけに応えてくれた民がいる。
「……ならば、私が行きます」
ネアルコが顔を上げた。
「殿下?」
ナスルーラは振り返り、三人をまっすぐに見つめた。
「帝都へ。皇帝陛下に、直接お会いします」
「危険です」
ネアルコが即座に言った。
「分かっています」
ナスルーラは静かに頷いた。
「ですが、王都に籠もり続ければ、戦いは終わりません。民に力を貸してほしいと願った以上、今度は私が進む番です」
シアはナスルーラを見つめた。その瞳に、もう迷いはなかった。
「……私も行きます」
シアが静かに言った。エルはしばらく地図を見つめていた。
「陛下への道筋は私がつける」
「私も同行する」
エルが続いた。
ネアルコは三人を見回し、深く息を吐いた。
「……俺は残る」
ナスルーラが何か言おうとするより早く、ネアルコは続けた。
「誰かがここを守らなきゃならねぇ。……殿下、お気をつけて」
会議を終えると、王城ではすぐに出発の準備が始められた。
エルの傷に毒がないことが確かめられ、三人分の馬と最低限の旅支度が整えられた。
やがて、三頭の馬が王城の門前へ並べられた。
ナスルーラ、シア、エル。
三人はそれぞれ馬へ跨り、帝都へ続く街道を見据えた。
ネアルコは三人の背を見上げ、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「おい、シア。殿下に何かあったら承知しねえぞ」
シアは振り返ることなく、小さく頷いた。
重い城門が開く。
三騎は並んで、夕闇の迫る帝都への道へと駆け出した。




