第51話:死角
王都を包む大歓声は、未だ衰えることを知らなかった。広場を埋め尽くした民衆はナスルーラを取り囲み、口々に歓喜の叫びを上げている。
シアはナスルーラの傍らで、その光景を慈しむように見つめ、安堵の微笑みを浮かべていた。
だが――その熱狂を断ち切るように、ネアルコが歓声の輪へ歩み出た。
「喜ぶのは後だ」
急報を受けたその顔からは、すでに勝利の余韻が消え、その眼光は鋭く研ぎ澄まされていた。
民衆の歓声は、潮が引くように緊張の静寂へと変わった。
「中央街道入口に防衛線を築け! 弓兵は高所! 槍兵は前だ!」
ネアルコの指示に応え、王国騎士団約三百名が一斉に動き出す。
鎧の革紐を固く締め直す者。愛馬の鬣を撫でながら跨る者。予備の長槍や盾を受け取り、無言で頷き合う者。広場に充満していたのは、もはや祝祭の熱ではない。間もなく訪れる「戦争」の、冷たく重い空気だった。
民たちは、誰一人として兵士の邪魔をしなかった。
誰も剣は抜かない。それが、ナスルーラへの答えだった。
幼子や老婆の手を引いて王城の奥へ避難させる者。兵士たちのために水桶や干し肉を運ぶ者。重い矢束や包帯の籠を抱えて走る者。
誰も、ただ守られるだけではいなかった。
シアは、そんな民たちの奔走に守られるナスルーラを、王城の安全な入口まで送り届けた。
「姫様、ここから先は城内の護衛に」
「……ええ。シア、あなたもどうか無事で」
城内では、エルが既に警備隊へ淡々と指示を飛ばしていた。
「北棟を封鎖しろ。殿下の周囲は二重警戒だ」
部下たちは即座に散っていく。駆け込んできたシアと、エルの視線が一瞬だけ交差した。
言葉はない。頷きもない。
二人は、そのまますれ違った。
副官が汗を拭いながらネアルコへ駆け寄ってきたのは、シアが再び外へ踏み出した時だった。
「ネアルコ様! 新総督の身柄ですが……総督執務室にて確保いたしました。入口は我が兵が固めております」
ネアルコは足も止めずに言い捨てた。
「戦が終わるまで、そのまま閉じ込めておけ」
「はっ!」
城門前では最後の避難指示が飛んでいた。
「最後の避難民です! 全員、城内へ入れました!」
「よし!」
ネアルコが片手を高く掲げる。
「――城門を閉じろ!!」
ギギギ……と重い滑車が鳴り響いた。
王が民を拒むためではなく、民を守るために。
重い城門は、静かに世界を分かつように閉じていく。
だが――門が完全に合わさる直前。
最後尾から、一人だけ影のように歩いてくる者がいた。
粗末な旅装を身に纏った男。荷物一つ持たず、人混みに紛れ込むようにして歩いている。
周囲だけが慌ただしい。男だけが、静かだった。
押し合う人々の間を歩いているのに、誰とも肩をぶつけない。足元を見ることもなく、人の流れを縫うように進んでいく。
その不自然さに気づいたのは、シアだけだった。
男はそのまま、避難民の波の奥、静まり返る王城の敷地内へと消えていった。
直後、ズシンと重い音を立てて城門が完全に閉じられた。
「おい、シア! どうした、行くぞ!」
中央街道へ集結した王国騎士団の先頭で、ネアルコが振り返り、声を張り上げた。
遙か彼方、街道の果てには、ルキウス直属私兵騎士団の黒い旗がうっすらと揺れていた。
だが、シアだけが動かなかった。
「……ネアルコ」
「何だ? 時間がねぇぞ!」
「……一人だけ、変な人がいた」
「あ?」
ネアルコが眉をひそめる。
「避難民じゃないのか? 混乱に乗じて紛れ込んだ奴なら、城内の警備が見張っている」
「……違う」
シアの真剣な眼差しに、ネアルコは言葉を詰まらせた。
街道からは軍馬のいななきと、敵軍の踏み鳴らす足音が近づいてきている。
ネアルコは一瞬だけ、目を閉じた。
「……行け」
「え……」
「そっちはお前に任せる。……こっちは俺たちが抑える。行け!!」
「……うん」
シアは深く頷くと、街道とは逆方向――静まり返った王城へと駆け出した。
シアは振り返らなかった。ネアルコもまた、振り返らなかった。
「迎え撃つぞ!!」
鎧を鳴らしながら、王国騎士団が黒い旗へ向かって進み始めた。
シアの背中だけが、その流れに逆らうように、静まり返った王城へと消えていった。
シアが駆け込んできた時、城門内広場は不気味なほどの静寂に包まれていた。
先ほどまで民衆の歓喜と兵士たちの足音に揺れていた石畳は、いまや無人。打ち捨てられた水桶や整然と積まれた矢束だけが、嵐の前の静けさを物語っていた。
その広場の中央に、先ほどの男がただ一人、立っていた。
粗末な旅装束。甲冑の類は一切身につけていない。腰には、見たこともない、片刃の反り刀が一本。
そして何より――その両瞳は、白く濁り切っていた。
シアは柄に手をかけ、速やかに剣を抜いた。
金属音が静寂の広場に響く。だが、男は微動だにしない。白く濁った瞳をシアへ向け、ただ静かに佇んでいた。
間合いを詰め、刃を構えて向き合った瞬間――シアの背筋に、冷たい氷を押し付けられたような戦慄が走った。
(……勝てる気がしない)
これまで出会った、どんな強敵とも違う。
「強い」という言葉すら生ぬるい。立ち姿にも、呼吸にも、隙らしい隙がない。何度斬りかかっても、自分の刃が届く姿を想像できなかった。
底知れない恐怖が、シアの手足を縛りつけた。
だが――シアは奥歯を噛み締め、ほんの少しだけ口元を結んだ。
(でも……姫様だけは)
(……守る)
その覚悟に応えるように、プリンスローズが妖しく輝いた。
シアは地を蹴る。
「――はぁっ!!」
一閃。
ガキンッ!
乾いた金属音が響いた。男は、ごく自然な動きでその刃を受け止めていた。
「……っ!?」
二撃。三撃。
死角から放ったはずの斬撃までも、男は迷うことなく捌いていく。
男は一歩も退かない。
それどころか、一撃を受けるたびに、半歩ずつ間合いを詰めてくる。
未知の太刀筋に追い立てられ、後退しているのはシアだけだった。
(この人……何を見てるの……!?)
「ふむ……」
男が初めて、低く落ち着いた声で口を開いた。
男はシアの剣を受け流し、静かに間合いを外した。
「……目に頼る剣か」
シアの息が止まる。
男は、こちらを見ていない。その濁った瞳は、最初から何も映してはいなかった。
「その程度なら――」
男はシアから興味を失ったように、自然体のまま歩き出した。
「先に王女を斬る」
す、と男が王城の奥へ向かって歩を進める。
「待ちなさい!!」
シアは背後から跳びかかり、渾身の一撃を叩きつけた。
ガキン!
男は振り向きもせず、背後へ回した刀の鞘でこともなく受け止めた。ハエでも追い払うように、歩みを止めない。受け流され、足を止めることもできず、ただ城内へ歩を進めていく。
圧倒的な絶望が、シアを押し潰しそうになった。止められない。この男の手から、姫様を守れない。
その時だった。
ギィ……と、城内の扉が重く開いた。
「……その刀。東方か」
静かな声とともに、一人の男が立ち現れる。
エルだった。
男が初めて、わずかに眉を動かした。
エルは男の旅装と刀を一瞥すると、ゆっくりとハイペリオンを鞘から抜いた。
「悪いが、この先は関係者以外、立ち入り禁止だ」
静かな殺気が、広場の空気を一変させる。
「……ここでお帰りいただこう」
エルとシア。二人は挟み込むように構え、同時に地を蹴った。
二つの刃が、前後の死角から男を襲う。王国でも屈指の二人の連撃。だが――。
キン! ガガアンッ!
男は流水のような足運びで二人の間を滑り、迫る刃を恐ろしい精度で捌いていく。避ける時でさえ、動きは指一本分ほどだった。
互角ですらない。男はまだ、一度も本気で踏み込んでいなかった。
「無駄だ」
男が冷ややかに言い放つ。
「目に見えるものに頼っていては、私は斬れぬ」
二人並んで距離を取る。肩を並べたエルは、男をじっと見つめた。
「……私が隙を作る」
低く、シアだけに届く声。
「ほんの一瞬だ。いいな」
シアは短く頷いた。
「……うん」
次の瞬間、エルは足元に転がっていた拳大の石を拾い上げ、男の背後へ投げ放った。
石が広場の柱へ激突し、乾いた音を立てて砕けた。
同時に、エルが石畳を強く蹴る。
音。振動。迫る殺気。
男の知覚が、ほんの一瞬だけ二つに割れた。
その刹那、エルは猛然と踏み込んだ。
「ハァァッ!!」
だが、男は即座に意識を引き戻した。
空気を裂く音と踏み込みの振動だけで、ハイペリオンの軌道を正確に捉える。
エルの渾身の一撃を、男は数ミリの差でかわした。
同時に、片刃の刀が半円を描いて閃く。
ザシュッ!
鮮血が弾け、エルの身体が大きくよろめいた。
そのまま膝から崩れ落ち、石畳へ倒れ伏す。
「エル!!」
シアの悲鳴が響いた。
倒れたエルは、呼吸を殺した。
殺気も、力みも、立ち上がる意志さえも消し去る。
その存在感が、潮が引くように広場から消えた。
男はエルを仕留めたと判断し、意識を残されたシアへ向けた。
――その、一瞬の油断。
倒れていたエルが、石畳を這うように身を起こした。
「……なっ」
男が振り向くより早く、エルはその右腕へ身体ごとしがみついた。
傷口から血を流しながら、刀を握る腕を両腕で押さえ込む。
「シアッ!!」
逃げ場を失った男の眼前へ、シアが踏み込んだ。
迷いはなかった。
シアは男の胸へ、プリンスローズを深く突き立てた。
刃を通して、肉を貫く重い感触が伝わる。
それでも、シアは手を止めなかった。
妖しく輝く刃が、男の胸を根元まで貫いた。
「……あ……」
男の口から、掠れた声が漏れた。
胸を貫く刃を感じながら、男はわずかに口元を緩める。
「……私も……見えるものに頼りすぎたか……」
男はそれ以上、何も言わなかった。
膝から崩れ落ち、石畳の上で静かに息絶えた。
静寂が、再び広場を支配した。
荒い息を吐きながら、シアは倒れた男を見下ろした。手にはまだ、肉を貫いた感触が残っていた。だが、すぐに顔を上げ、エルの元へ駆け寄る。
「エル! 大丈夫!?」
エルの胸元は大きく裂けていた。破れた服の隙間から、鈍い銀色の金属網が覗いている。
「……鎖帷子?」
「ルキウスが相手だ。念のためにな」
エルは傷口を押さえながら、ゆっくりと身を起こした。
「大した傷じゃない。……毒がなければな」
シアは呆れたように眉を寄せ、それから小さく息を吐いた。
エルも、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……ごめん。私、街道へ行く」
「行け」
エルは短く告げた。
シアは力強く頷いた。
遠くから、腹の底へ響くような轟音が聞こえた。
中央街道の戦いは、すでに始まっている。
シアは一度も振り返らず、ネアルコたちの待つ街道へ向かって駆け出した。




