第50話:民の選択
隠れ家となった古い倉庫の中に、緊張した空気が漂っていた。
「危険すぎます」
ネアルコが深刻な面持ちで首を振った。
「新総督の手先や帝国兵がどこに潜んでいるか分かりません。公の場に姿を現せば、暗殺の標的になる」
シアも、不安を隠せない様子でナスルーラを見つめていた。だが、当のナスルーラは静かに首を横に振った。
「それでも、私は姿を見せます」
幼さの残る顔に、悲壮感はない。あるのはただ、真っ直ぐな覚悟だった。
「民は、私が生きていることすら知らないのです。ただ冷たい制度の中で息を殺している。……私が生きてここにいると知らせること。すべてはそこからしか始まりません」
誰も、それ以上は止められなかった。
翌日、午後。王都中央広場。
「王女様がお戻りになったらしい」
市場の陰で、誰かが呟いた。
「馬鹿を言え」
老人は力なく首を振った。
「……もう半年だ。王女様は討たれたんだよ。きっとな。生きておられるなら、とっくに姿を見せてくださっている……」
半年という歳月は、希望を噂へ、噂を諦めへ変えるには十分な時間だった。
「……でも、あの方なら」
パン屋の女将が、小さく呟いた。
「飢饉の年、うちの裏の孤児院へ、何度もパンを運んでくださった」
「……俺も覚えてる」
若い男が言った。
「母を亡くして泣いていた俺の隣で、一緒に泣いてくれた」
押し殺した声が、熱を帯びて広がっていく。
やがて、人々は集まり始めた。
もし本当なら。もし一目でも姿を見ることができるなら。信じたい者、諦めた者、半信半疑の者――そんなすがるような思いだけで、石畳の広場は無数の民衆で埋め尽くされていった。
やがて、広場の高台へ一人の少女が姿を現した。白い外套が、風にはためく。
その瞬間。
誰かが震える声で叫んだ。
「……王女様だ!!」
その一言が、雷鳴のように広場全体へ駆け抜ける。
高台に立ったナスルーラは、石畳を埋め尽くした無数の民の顔を見渡した。
「……皆さん」
ナスルーラは唇を噛んだ。
深く息を吸う。
「……ただいま帰りました」
言い終えた瞬間、ナスルーラの唇が震えた。何かを続けようとして、言葉にならない。視界が滲み、足元の石畳が見えなくなる。慌てて袖で涙を拭う。それでも、溢れるものは止まらなかった。
「……ごめんなさい」
ぽつりと漏れた。
「帰るのが……遅くなってしまって……」
静寂の中、ずっと黙って見つめていたパン屋の女将が、ぽろぽろと涙をこぼした。
「……謝らないでください」
次の瞬間、あの若い男が、涙で顔をくしゃくしゃにして拳を突き上げた。
「王女様ぁぁぁっ!!」
それを合図に、歓声が爆発した。
「お帰りなさいませ!!」
「生きていてくださった……!」
「俺たちの国だ!!」
歓声は波のように広がり、広場全体を揺らした。地鳴りのような声は、いつまでも鳴り止まなかった。
ナスルーラは何度も涙を拭った。それでも、頬を伝う雫は止まらない。やがて、人々は少しずつ声を落とし始めた。もう誰も叫ばない。誰もが、ナスルーラの次の言葉を待っていた。
ナスルーラは両方の袖で強く涙を拭った。もう一度だけ、深く息を吸う。顔を上げる。
「……ありがとうございます」
静かな声が、広場へ染み渡っていく。
「私は、もう逃げません。この国からも。皆さんからも」
返事はない。ただ、誰もがナスルーラを見つめていた。
「私は、戦いを望みません。帝国を憎めとも言いません。でも……この国だけは、私たちの手で守りたい」
ナスルーラはまっすぐ前を見据えた。
「この国の未来は、誰かに与えられるものではありません。私たち自身が、選ぶものです」
ナスルーラは一度言葉を切り、深く頭を下げた。
長い沈黙。
「……どうか」
「力を貸してください」
無数の声が幾重にも重なり合い、王都全体を震わせる大合唱となって、澄み渡る空へどこまでも昇っていった。
帝都、執務室。
重厚なオーク材の扉が閉じられ、室内には死のような静寂が満ちていた。磨き上げられた大理石の床に、外光が冷たく差し込んでいる。
執務机に向かうルキウスは、送られてきた急報に静かに目を通していた。
机の前に佇む側近の将校が、硬い表情で口を開く。
「……王都ヴァレイドの新総督より急報です。潜伏していた前王女ナスルーラを名乗る者が公の場に姿を現しました。広場には数千の民が集結。現地の駐留軍だけでは鎮圧不能……なお、総督は『王女は偽物の可能性が高い』と報告しております」
「……」
ルキウスは手元の紙面から目を離さず、一言だけ呟いた。
「偽物か」
沈黙が落ちる。
「……断定は早い」
「は……はっ。動揺を誘うための騙りかと。直ちに正規軍を増派し、議会の承認を得た上で鎮圧を――」
「待たない」
「……はい?」
「議会を待つ間に、民意が完成する」
ルキウスは静かに羊皮紙を伏せた。そこに動揺の欠片もない。
「捕らえろ。私が確認する」
「……承知いたしました」
将校が深く頭を下げた、その時だった。ルキウスが淡々と言葉を継ぐ。
「王女が表に出るということは……」
ペンを持ち直し、視線だけを上げる。
「シア・ロードンは」
将校の体が微かに強張った。
「は……現在も王都付近にて、姿を眩ませたまま動きが掴めません」
ルキウスは机の端に置かれた別の報告書――リーフが北でシアと交戦した時、密かに逃げ延びたルキウスの配下が残した記録へ静かに指を伸ばした。
『視界を閉ざした者のみ、一時交戦可能』
その一行を視線でなぞり、短い沈黙が落ちる。
「あの男を使う」
説明はなかった。だが、その意図を察した将校が、少しだけ目を見開いた。
「まさか……あの者を動かされるのですか」
「そうだ」
ルキウスは羊皮紙へ短く命令を書き走らせた。
「私兵騎士団を出動させろ。王女は生け捕り。シア・ロードンは排除せよ。報告は、結果だけでいい」
「はっ! ……では、帝国議会への説明は……」
「後で説明する」
ルキウスは一度も顔を上げず、次の書類へと視線を落とした。
「報告! 広場に王女を名乗る少女が出現! 民衆は数千規模へ膨れ上がっております!」
総督府の執務室。伝令の叫び声が響き渡る中、新総督は窓の外――大歓声の渦巻く広場を見下ろした。
「……来たか。反乱軍がついに正体を現したか」
総督は振り返ると、机を激しく叩いた。
「あれは偽物だ! 帝国への明白な反乱である! 駐留軍を総動員し、直ちに反乱軍を鎮圧せよ!」
広場の熱気の中に、金属音が踏み鳴らされた。重厚な甲冑に身を包んだ帝国駐留軍が、整列して広場を包囲していく。
地鳴りのような民衆の歓声が、潮が引くように止まった。
高台に立つナスルーラは、兵士たちの前にただ一人で立っていた。
民たちの視線が、一斉に兵士たちへ注がれる。
その時だった。広場を埋め尽くす群衆が、静かに左右へと割れていった。
民が自然と道を空ける中を、一人の人物が歩いてくる。
シア・ロードンだった。
静かな足取りで高台へ上がり、ナスルーラの隣へと立つ。その姿をバルコニーから見下ろした総督が、歯ぎしりをさせた。
「……貴様も姿を現したか、シア・ロードン……!」
だが、シアの剣は、鞘に収まったままだった。
総督府のバルコニーから、総督の怒号が響き渡る。
「突撃せよ! 反逆者を一人残らず捕らえろ!」
命令は下った。しかし、兵たちは動かない。
「何をしている! 聞こえないのか! これは命令だ!!」
静寂だけが、広場を支配していた。
やがて、駐留軍の先頭に立つ隊長が、固く拳を握りしめた。
長い沈黙の後、静かに一歩を踏み出した。
総督を見上げ、右手を胸に当てて敬礼した。
「……申し訳ありません」
総督の顔が怒りで歪んだ。
「貴様……反逆か!」
「違います」
隊長はまっすぐな目で言葉を継いだ。
「あの日……長官は、敵国であるはずの私たちを、自ら傷を負いながら守ってくださいました。私たちを逃がすため、最後まで前線に立ち続けてくださいました」
「だから何だ! 騎士とは命令に従うものだ! それが帝国騎士だ!!」
隊長は、一言ずつ噛み締めるように告げた。
「その命令に従うくらいなら――」
隊長は腰の剣を外し、石畳へ置いた。
「――私は、騎士を辞めます」
重い金属音が、静まり返った広場へ響き渡った。
シアは、ただ静かに目を見開いた。その覚悟までは、彼女にも予想できなかった。ナスルーラもまた、何も言わず、その光景を見つめていた。
それを合図にするように、若い兵士が一人、長槍の穂先を下ろした。
「……俺もです」
また一人、剣を下ろす。
やがて全隊が、静かに武器を下ろしていった。その場から、民へ向けられた刃は一本もなくなった。
「な……何なんだ貴様らは!」
総督は兵士たちを怒鳴り散らした。だが、その視線の先には、なお増え続ける民衆があった。
「……城門を閉じろ!! 王城へ民を近付けるな!」
狂ったように叫ぶ総督に対し、門番は総督へ敬礼した。
「……できません」
「命令だぞ!!」
「……王女殿下がお帰りになりました」
少しの間。
「この門は、王が民を拒むための門ではありません」
門番たちは、その場を動かなかった。重い鉄の門へ手を掛ける者は、一人もいない。
「何故だ……なぜ誰も命令に従わん……!!」
総督の表情から、先ほどまでの余裕は消えていた。
その時だった。息を切らした伝令が階段を駆け上がってきた。
「帝都より急報!!」
伝令は震える声で告げた。
「ルキウス閣下直属私兵騎士団! 王都へ向け、進軍を開始しました!」
総督の顔に、冷たい安堵が戻った。
「……間に合った」
王城の門は、ついに閉じられることはなかった。
再び湧き上がる歓声の遥か彼方。
帝国街道を、黒い旗が進んでいた。
その下を、私兵騎士団は一言も発することなく、王都へ向かっていた。




