第49話:守ること
数日後の夕暮れ、ヴァルフォードを濡らし続けていた冷たい雨は上がっていた。雲の切れ間からかすかな残光が差し込み、静まり返った倉庫の空気を満たしている。
ガタリ、と重い木製の扉が押し開けられた。
泥にまみれた外套をまとい、エルが戻ってきた。その肩には隠しきれない旅の疲労が刻まれていたが、まっすぐに前を見据える瞳に、もう迷いの色はなかった。シアは彼の顔を見るだけで、すべてを理解した。エルは、自らの答えを見つけて帰ってきたのだ。
奥の机を囲み、全員が集まった。エルは椅子に深く腰掛けることもせず、静かに話し始めた。帝都での出来事を詳細に語ることはせず、ただ、彼が得た結論だけを、平坦な声で告げた。
「皇帝陛下は敵ではない。そして、ルキウス一人を倒しても、終わらない」
エルの視線が、ネアルコ、ナスルーラ、そしてシアへと向けられる。
「帝国はもう、一人では止まらない」
誰も言葉を返さなかった。新総督の統治によって街に広がり始めた息苦しさを知る彼らには、その言葉の持つ意味が、重く、正しく理解できた。
エルは机の上に、ヴァルフォード王都周辺の地図を広げた。細い指先が、正確に地図の各所を指し示していく。
「私たちは帝国を倒すために戦うのではない。ヴァルフォードが、自ら未来を選べる国になるために戦う」
エルの言葉に、ナスルーラが息を呑み、ネアルコが無言で頷いた。
「ヴァルフォードを武力で奪い返すつもりはない。目指すのは、自治の獲得だ。ナスルーラ殿下には、その正統性を示していただく。私たちは、その舞台を整え、道を開く」
淀みなく役割が整理されていった。反乱軍との連携、市民の避難誘導、各部隊の役割分担。一人ひとりの役割が、無駄のない精度で割り振られていった。
すべての作戦確認が終わった。エルは地図から顔を上げ、全員の顔をゆっくりと見回した。
「私たちの目的は、勝利ではない」
短い沈黙が、夕闇の迫る倉庫に流れた。エルはもう一度、全員の目をしっかりと見据えて、静かに言葉を繋いだ。
「守ることだ」
作戦の共有を終え、それぞれが持ち場へと動き始める。その背に向けて、エルが静かに声をかけた。
「シア」
シアが足を止め、振り返る。エルは、穏やかな眼差しを彼女に向けていた。
「現場では、君が正しいと思う判断をしろ」
シアの眉が、かすかに動いた。驚きに目を見開く彼女に、エルは言葉を重ねる。
「私の命令を待つ必要はない」
そこで、エルはほんの少しだけ笑った。
「……君なら、判断できる」
シアは何も言わなかった。ただ、エルを見つめる。その眼差しだけで、十分だった。やがて、小さく笑った。
「……うん」
小さく頷くと、シアは静かに歩き出した。
それぞれが持ち場へと向かい、仲間たちの足音が遠ざかっていく。
やがて倉庫には、エルだけが残された。
エルは王都周辺の地図を静かに畳むと、棚からもう一枚を取り出した。帝国全土からヴァルフォード北部までを網羅した、広域の地図だった。
雨の上がった外からは、遠く夜風の揺れる音だけがかすかに聞こえてくる。
エルは、机の上に広げた広域地図をじっと見つめていた。蝋燭の揺らめく灯りが、羊皮紙の上に伸びる街道や村々の名を淡く照らし出している。
細い指先が、地図の上をゆっくりと滑った。指が止まったのは、山あいに小さく記された、その村の名の上だった。
ダーレイ村。
灰。
……十四人。
北方戦争。
七つの村。
(……似ている)
エルの指先が、村の名の上で止まった。
(誰かが、切り捨てるべきものを先に決める)
(そして、それを最適解として執行させる)
(あれも……まさか……)
エルは目を閉じた。
「……今は違う」
静かに息を吐き出すと、羊皮紙を畳んだ。机の上の蝋燭を吹き消し、外の闇へと歩み出した。
夜は静かに深まっていた。仲間たちは皆、体を休めている。倉庫の脇では、焚き火だけが静かに爆ぜていた。
シアは一人、火の粉が夜空へ消えていくのを眺めていた。赤く揺れる炎の向こうに思い出すのは、遠いアルザオ村の景色だった。優しかった父の顔。母の温もり。かつて渡った石造りの橋。そして――あの日。
カサリ、と草を踏む音がした。エルが隣に腰を下ろす。
二人の間に言葉はない。ただ、パチ、と薪が爆ぜる音だけが静寂を満たしていた。
シアは膝を抱えたまま、ゆっくりと口を開く。
「あの村で、全部なくなったと思ってた」
エルは黙って聞いている。
「失ったものは戻らない。どれだけ願っても……二度と」
シアは一度だけ目を閉じた。
「……でもね。だからこそ、分かったの」
シアは炎から目を離し、夜空を見上げる。
「誰かの犠牲の上に成り立つものなんて……私は見たくない」
二人の間を、夜風が静かに吹き抜けていく。
「……私も同じだ」
パチ、と薪が弾けた。
「だから、止める」
シアは何も聞かなかった。ただ、静かにエルの横顔を見つめる。小さく頷く。
「……うん。私も止める」
少し照れたように笑う。
「力を貸して」
「ああ」
エルは小さく頷いた。
「ヴァルフォードのことだけど」
視線を炎に戻し、小さく息を吐く。
「元総督」
エルは一瞬だけ眉をひそめる。そして、小さく笑った。
「そう来るか」
シアもつられて口元をゆるめた。
二人はもう何も言わなかった。
パチ、と薪が弾けた。
夜が、ゆっくりと更けていった。




