第48話:夜明け前
帝都の雪は、ここヴァルフォードには届かない。代わりに、骨まで染み込むような冬の冷たい雨が、彼らの現在の隠れ家である、王都郊外の薄暗い倉庫群の屋根を激しく叩いていた。
薄暗い倉庫の片隅で、シアは木箱に並んだわずかな備蓄物資の数を数え、帳面に書き留める作業をしていた。かすかな蝋燭の灯りだけが、冷え切った空間を辛うじて照らしている。王都の情勢は日に日に悪化し、ここに届く物資も目に見えて細っていた。
ガタガタと重い木製の扉が押し開けられたのは、そんな時だった。
「――殿下、ただいま戻りました」
ネアルコは長い旅路を終え、ヴァルフォードへ戻ってきた。衣服は泥にまみれ、濡れた外套を大きく振って雨の滴を払うその手はかじかみ、小さく震えている。その疲労よりも重かったのは、彼がまだ一度も視線を上げなかったことだった。
シアはすぐに立ち上がった。物資の整理を中断してネアルコの方へと駆け寄る。
「ネアルコ! 無事でよかった」
「……ああ」
奥の火元で土鍋を見守っていたナスルーラが歩み寄り、湯気の立つ素焼きの器を彼の前に差し出した。中には、この土地の安い薬草を煎じた温かい飲み物が入っている。
「ご苦労様、ネアルコ。まずは座って。これくらいしかないけれど、よかったら、飲んで。話はそれからでいいわ」
「殿下、ありがとうございます」
ネアルコは促されるまま木椅子に深く腰掛け、凍える両手で器を受け取った。誰も喋らない。ただ、雨だけが倉庫の屋根を叩き続けていた。その重苦しい静寂の中、ネアルコは熱い液体を喉に流し込み、手の中の器を見つめたまま、静かに口を開いた。
「――エルは、帝都に残った」
二人の視線がネアルコに集まる。彼は器を握りしめたまま、重く言葉を紡いだ。
「俺には政治は分からん。だが、エルは言っていた。俺たちが見てきたものは、全部一つの盤面の上にあるのかもしれない、ここまで国家を動かせる人間は二人しかいない、と。皇帝陛下か……議長ルキウス。だから、自分の目で確かめに行く、と」
シアの胸の奥が、冷たい楔を打ち込まれたように小さく跳ねた。
「……ルキウス」
エルが一人で帝都へ残った。
その重みだけが、胸の奥へ静かに沈んでいった。
その名は、倉庫の冷え切った空気に静かに溶けていった。誰も言葉を続けなかった。雨音だけが、静まり返った倉庫に重く響いている。空気がさらに張り詰めたように、シアには感じられた。
重苦しい沈黙の中、ナスルーラは呆然と視線を彷徨わせていた。ネアルコが口にした「盤面」という言葉が、彼女の脳裏の底に沈んでいた古い記憶の澱を、激しく揺り動かしていた。
――あれは、いつだったか……まだ幼い頃。
嵐の夜だった。王宮の長い回廊を歩いていた時、閉ざされた扉の向こうから、高官たちの低く張り詰めた声が漏れ聞こえてきた。
『――橋が落ちたことで、七つの村が犠牲になったそうだ』
当時のナスルーラには、その政治的な意味など何も分からなかった。ただ、「七つの村」という言葉だけが幼い心に消えない傷のように焼き付き、今でも忘れられずにいた。
けれど、今は。
あの時、高官たちがどのような顔でその言葉を交わしていたのか、その理由だけは痛いほどに分かった。ナスルーラは喉の奥が引き攣るのを感じ、思わず小さく息を呑んだ。
シアは俯いたまま、動けずにいた。ネアルコの言葉が、頭の中で何度も、何度も跳ね返っている。
北方戦争。盤面。ルキウス。
理解したくなかった。そんなはずがないと、心が拒絶を叫んでいる。あれは戦争だった。だから、仕方がなかった。そう思わなければ、あの日を受け入れることなどできなかった。
もし、あの日の戦争そのものが、誰かの盤上に置かれたものだったとしたら。あの日、炎に包まれたあの場所は。父も。母も。あの村のみんなも。
目の前が突然、ぐにゃりと揺れた。足に、まったく力が入らなかった。
シアの膝ががくりと折れ、木箱の角に辛うじて手をついた。生々しい木のささくれが手のひらに食い込むが、その痛みすら遠い。
誰も、声をかけることができなかった。
シアの激しい呼吸だけが、冷たい空気の中で白く乱れている。ネアルコはただ拳を握りしめ、ナスルーラも動けないまま彼女を見つめていた。耐えがたい沈黙が流れる。聞こえるのは、ただ屋根を叩き続ける雨音だけだった。涙さえ出ない空白の時間のなかで、シアは木箱に手を預けたまま、かろうじて呼吸を繋いでいた。
どれほどの時間が流れただろうか。
雨だけが、降り続けていた。
乾ききった喉から、かすれるような声がようやく床へ落ちた。
「……アルザオ村」
それは、シアが誰にも語ったことのない故郷の名だった。
その一言が落ちた瞬間、倉庫の空気が完全に止まった。
ネアルコがゆっくりと顔を上げる。ナスルーラもまた、息を詰めたままシアを見つめている。誰も何も言わない。
シアは木箱から手を離し、自らの掌を見つめた。かつて何もできずに泥を握りしめていた、傷だらけだった幼い手。今は違う。そこには、剣を握り続けてきた証があった。
シアは、静かに、しかし強く拳を握りしめた。
「失った人たちは……帰ってこない」
「……でも」
シアはゆっくりと顔を上げる。呼吸は、もう乱れていなかった。
「ヴァルフォードだけは」
シアはもう一度、拳を強く握る。
「もう二度と、大切な人たちを傷つけさせない」
誰も言葉を返さなかった。だが、その決意は確かに三人の間で共有される。
雨音だけが、静かな倉庫に響き続けていた。
数日後、帝国から新たなヴァルフォード総督が着任した。
男は優秀だった。滞っていた行政は数日で息を吹き返し、乱れていた物流の網が再び繋がり始める。複雑に絡み合っていた税制は瞬く間に整理され、街道へ効率的に配置された兵によって、治安は目に見えて改善していった。
市場には活気が戻り、人々は口々に噂した。
「新しい総督は仕事が早い」
街は以前よりも整い、数字の上ではすべてが劇的に改善していた。しかし、住民たちの間には、徐々に小さな違和感が染み出し始めていた。
役所は書類だけを見た。現場へ足を運ぶ役人は一人もいなくなり、どれほど困窮した事情を訴え出ても、返ってくるのは冷淡な規則の読み上げだけだった。
行政改革は、物流にも及んだ。採算の合わない渡し船は、順次廃止されていった。
ある日、長年その渡し守をしていた老人が、役所の窓口を訪れた。職を失い、これからの生活の窮状を訴える老人の前で、対応した役人は手元の帳簿に視線を落としたまま、ただページを繰った。
「規定では、補償の対象外です」
老人はなおも、窓口の木柵へすがりつくようにして声を絞り出した。
「便利になったことくらい、わしにも分かっとる……。でも、わしは、どうすればいい」
「次の方」
老人は立ち尽くしたままだった。役人は、最後まで視線を上げなかった。
街は確かに正しく機能していた。それでも、人々の胸には言葉にできない息苦しさだけが、澱のように静かに積もり始めていた。
人は救われていた。だが、人は見られてはいなかった。




