第47話:迷ってはならない
謁見室の重厚な扉が閉まった瞬間、そこにはただ、どこまでも続く長い回廊だけが伸びていた。
先ほどまで「国家の論理」そのものとしてエルを圧倒していた帝国議会議長ルキウスは、一人、静かに歩みを進めていた。周囲に人の気配はない。ただ、窓の外で静かに降り積もる白い雪の音だけが、張り詰めた空間を支配していた。
ルキウスはふと立ち止まり、窓に手をかけた。冷たいガラスの向こうで、雪が帝都を白く染めていく。
胸の奥に、エルのあの言葉が甦る。
――ただの、切り捨てです。
ルキウスは目を閉じた。
唇が、わずかに動く。
「……先生」
その声に、政治家としての峻厳さは一切なかった。そこにあったのは、冷たい仮面の奥に押し込められていた、二度と届かない背中を追い続ける男の、静かな、あまりにも静かな疲労だった。
二十年以上前の記憶。まだ、世界が今ほど複雑ではなかった頃の光景だ。
少年時代のルキウスは、誰よりも早く、正確に剣を振るう才能を持っていた。その一振りに迷いはなく、型は完璧だった。その少年の前で、まだ若き師範であったエドワードが、自らの木剣を収めながら静かに語りかけていた。
「ルキウス。剣は人を斬るためだけのものではない」
十代のルキウスは、その言葉を真面目に、寸分の疑いもなく聞き入れ、深く頷いた。
「はい。――肝に銘じます」
数日後、ルキウスは城内で兵站の不備に頭を抱えている兵士たちを見かけた。彼はすぐに行動した。複雑に絡み合った規則を精査し、無駄な手続きを削ぎ落とし、物資の流通経路を完全に最適化してみせた。結果として、凍えかけていた北方の兵士百人が救われることとなった。
ルキウスは輝くような目でエドワードの元へ戻り、報告した。
「先生。仕組みを整えました。これで、百人の命を救えます」
エドワードはルキウスの頭を撫で、優しく笑った。その瞳には、我が子の偉業を称えるような確かな温もりがあった。
「見事だ。お前は本当に優秀だな、ルキウス。――だがな、仕組みが救ったのは『百』という数ではない。今夜、温かいスープを飲んで、安心して眠る一人ひとりなんだよ」
先生は褒めてくれた。なのに、その後に続く言葉だけが、霧の向こうから聞こえてくるようだった。
百人を救った。
それ以上の「正しい結果」が、この世にあるというのか。少年のルキウスには、それがどうしても理解できなかった。
同じ頃、宮廷の奥深くで、前皇帝はエドワードを呼び出していた。
「エドワード。息子の、ルキウスの剣の師になってやってくれ」
それが表向きの依頼だった。だが、老いた皇帝が真に願っていたことは、全く別の場所にあった。前皇帝は深く溜息をつき、我が子の並外れた才を恐れるように、掠れた声で言った。
「……あの子は、優秀すぎる。優秀すぎるがゆえに、人が見えん。どれほどの数字を救うかは計算できても、その中にある一人ひとりの顔が見えていないのだ。エドワード、頼む。どうかあの子に、『人』というものを教えてやってくれ」
エドワードは、その言葉の持つ重すぎる意味を理解し、静かに、深く頭を下げた。
「……御意に」
それからの修行の日々は、終わりのないすれ違いの連続だった。
ある日、城下を歩いていると、貧民街の少年が泥の中に転び、泣いていた。ルキウスは足を止めることなく、同行していた兵士に淡々と命じた。
「そこの子供を助け、家まで送り届けろ。それがお前の任務だ」
ルキウス自身は、そのまま歩き続けようとした。だが、エドワードはその場に立ち止まり、自ら泥の中に膝をついて、少年を優しく抱き起こした。少年の汚れを自分の服で拭い、微笑みかける。
追いついてきたルキウスは、疑問を口にした。
「先生。私は兵士を動かしました。自分で動くより、その方が確実で効率的です」
エドワードは少年を送り出した後、ルキウスの肩に手を置き、静かに諭すように見つめた。
「そうだ。お前の判断は正しい。――だがな、あの子にとって今日救ってくれた人は、お前ではなく、兵士なんだ。お前はあの子の目を見ていない。その肌の冷たさを、お前自身は感じようとしていないんだよ」
また別の日、ルキウスは自らが書き上げた内政の改革案を掲げて言った。
「この制度が浸透すれば、私の見えていない場所にいる人々にも、等しく幸福が行き届きます」
エドワードは悲しそうに、しかしその優秀さを拒絶せぬよう、少しだけ笑って言った。
「素晴らしいな。だがルキウス、お前の見えていない方向にも、数式ではなく、一人ひとりの人間が必死に生きていることを、忘れないでくれ」
ルキウスは真剣にその言葉を捉えようとした。教えを拒絶したことなど一度もない。理解したかったのだ。だが、どうしても理解できなかった。悪気は微塵もない。国家という巨大な盤面を最適化することだけに特化した彼の知性は、目の前の一人が流す涙の温度を感じ取る術を持っていなかった。
そして、運命の日が訪れる。
前皇帝が急逝し、宮廷は次期皇帝の座を巡って揺れていた。
誰もが確信していた。次代の血を継ぎ、非の打ち所のない実績と、完璧な忠誠、あるいは圧倒的な能力を持つルキウスこそが、新たな皇帝になるのだと。ルキウス自身も、それが自らの果たすべき「正しい義務」だと信じて疑わなかった。
しかし、玉座に上るよう遺言で指名されたのは、傍系であり、一介の武官に過ぎなかった師――エドワードだった。
謁見の間に一人残されたルキウスの脳裏には、ただ一つの言葉だけが渦巻いていた。
(なぜだ)
失敗などしていない。怠ったこともない。父への忠誠も、国家への献身も、すべてにおいて完璧であったはずだ。能力も、実績も、自分が一番優れている。
(なのに、なぜ父上は私を選ばなかった)
その夜、ルキウスは人知れず、ただ一人で剣を振るった。誰よりも正確だった彼の剣が、あの日、初めて激しく乱れていた。激しい風切り音の中に、彼の生涯で唯一の「混沌」が渦巻いていた。
彼は、傷ついていた。選ばれなかった理由が、どうしても分からなかった。
(先生は正しい。父上も正しい。……ならば、理解できない私が悪いのだ)
(何が見えていない?)
(先生は、何を見ている?)
(父上も、同じものを見ていたのか?)
(私は……何を見落としている?)
何日も、何ヶ月も、彼はその問いの深淵を覗き込み、考え続けた。しかし、どれほど知性を研ぎ澄ましても、その計算式のどこにも、血の通った「一人」という解は現れなかった。最後まで、答えは出なかった。
(分からない)
(ならば――私に出来ることをやるしかない)
彼は父を恨まなかった。
エドワードを憎むこともなかった。
世界が間違っているとも思わなかった。
ただ、自分の中にまだ足りないものがあるのだと考えた。
ならば、それを埋めればいい。
もっと正確に。もっと広く。もっと多くを救える仕組みを作ればいい。その果てに、彼の判断から迷いだけが消えていった。
あの、完璧なる帝国議会議長ルキウスが完成してしまったのだ。
「――ルキウス議長」
背後からかけられた声に、ルキウスはゆっくりと目を開けた。一瞬だけ窓の外の雪に落としていた懐古の影は、霧が晴れるように消え去っていた。振り返った彼の顔には、いつもの、完璧なまでの公的な節度だけが張り付いている。
「何だ」
「次の案件です。例の法案の決裁を」
「分かった。すぐにいく」
部下の案内を受け、ルキウスは再び、一切の淀みのない足取りで回廊を歩き出す。その足音は、固く、国家の歯車そのものの規則正しさで響いていた。
ルキウスは、心の中で、二度と届くことのない師の背中に向かって独白する。
(先生。私は今も、この帝国を守っています)
(あの日から、一度も迷ってはいません)
(私は今でも、あなたの教えを探しています)
(……ですが、私には、まだ見つけられません)
(それでも――)
彼は前を見据えたまま、歩みを止めない。
(……迷っては、ならないのです)
その言葉だけが、今も彼を前へと歩かせていた。




