第46話 二つの剣
謁見室の重厚な扉が、静かに、しかし確実に開かれた。
エルが跪いたまま待つ中、入ってくるのは、周囲を威圧するような外套も、黒幕のような陰鬱さも纏わない男だった。 整った身なりに、一点の乱れもない礼。男は、ただそこに「帝国議会議長」として、当たり前のように存在していた。
「皇帝陛下。――それと、皇帝直属兵団長、エル・シャーリー殿」
ルキウスの言葉には、敵意も侮蔑もない。ただ、公的な場における完璧な節度があった。 エルもまた、その底知れぬ双眸を静かに見据え、返した。
「議長閣下」
謁見室の沈黙の中に、二人が公式に向き合うための、張り詰めた、けれど確かな距離が生まれていた。
エルは、ネアルコが現地から持ち帰った違和感と、自らが帝国内の資料から精査した事実を、淡々と、しかし一点の曇りもなく言葉にした。
「六年前の北方。交易の突然の縮小、迅速な人事異動、そして議会における不可解な意思決定。――これほど多岐にわたる国家の組織が、まるで一つの意思を持っているかのように、同じ方向へ連動して動いています。……これは、偶然ではあり得ません」
エルの声が、広い謁見室に低く響く。 ルキウスは黙ってそれを聞いていた。否定することも、感情的に反論することもしない。ただ、エルの知性がどこまで届いているかを、静かに見定めている。
ルキウスは一拍置き、静かに問いかけた。
「……証拠は?」
「ありません。現時点では、あくまで私の推論です」
エルは即答した。一瞬、部屋を支配する沈黙。
ルキウスは、静かに頷いた。
「……そうだろう」
それだけだった。その一言に、エルは言いようのない冷や水を浴びせられたような感覚を覚える。まるで、自らの苦闘すらすべてあの男の手の平の上であったかのような、底知れぬ沈黙。
「ですが、偶然に起こり得る限界を、この盤面は遥かに超えている」
そのエルの揺るぎない視線を受け止め、ルキウスの瞳の奥にある光が、さらに鋭さを増した。
ルキウスの言葉は、酷く無機質で、だからこそ絶対的な響きを持っていた。
「私は何一つ命じてはいない。暴動は起きた。議会は北方との交易を危険と判断した。私は議長として、その決定を執行した」
ルキウスはそこで一拍置き、ただ事実だけを告げるように、冷たく言い放った。
「……それだけだ」
「では」
エルは静かに、しかし刃を突き立てるように問いを重ねる。
「なぜ、すべてが都合よく閣下の望む方向へ進むのです」
ルキウスの口元が、一瞬だけ、本当に僅かだけ和らいだ。
「それは、正しい判断だからだ」
その言葉のあまりの重さに、謁見室の空気が張り詰める。ルキウスは一歩も引かない。
「国家は感情で動かない。動いてはならない。貴殿の言う『人』とは、いったい誰のことを指している? 目の前の一人か? それとも、この帝国に生きる数百万の民か」
「それを私は、選択とは呼びません」
エルは一歩も引かなかった。その言葉を真正面から受け止め、さらに踏み込んだ。
「ただの、切り捨てです」
二人の知性が、全く異なる「正義」を抱いたまま、激しく火花を散らした。
それまで二人の問答を静観していたエドワードが、ゆっくりと、しかし絶対的な重みを持って言葉を挟んだ。
「二人とも、そこまでだ」
エドワードはルキウスを庇うことも、エルを支持することもしなかった。 ただ、その深く刻まれた眉間の皺が、王としての、そして師としての引き裂かれるような苦悩を物語っていた。
「エル。お前が見たものは事実だ。――失われた命も、焼けた村も、あの日確かに存在した」
次に、エドワードは自らが二十年育て上げた愛弟子、ルキウスを見つめた。
「ルキウス。お前が守ろうとしているものも、また帝国だ。それもまた、事実だ」
どちらも、彼自身が育てた「正しさ」だった。 エドワードは、その容赦なき合理によってこの帝国が支えられてきたことも、身を以て知っていた。だが同時に、失われた「人の心」を重視するエルの言葉もまた、彼がかつて王として掲げた理想そのものだった。
だからこそ、皇帝自身にはそれを裁くことはできなかった。
拝謁の終わりを告げられ、ルキウスが退室のために踵を返す。 その去り際、男は一度だけ立ち止まり、エルを見た。
「……やはり、貴殿は変わらないな」
エルは表情を変えずに応じた。
「……私は、私の務めを果たしているだけです」
「いや。だからこそ、貴殿なのだ」
ルキウスは、静かに、けれど呪いのように重い言葉を残した。
「貴殿は、いつも目の前の一人を救おうとする。それは美徳だ。だが国家は、一人を救うためには存在しない」
エルは答えなかった。ただ、その拳だけが、誰にも気付かれぬほど僅かに握られていた。その言葉が、反論の余地もないほどに純粋な「国家の真理」であると、その身を以て知っているからだ。
ルキウスの背中が、ゆっくりと謁見室から消えていく。
エルは、その去りゆく影を見つめながら、確かに理解していた。 あの男は、決して悪意や野心で動いているのではない。本気で、この帝国を守ろうとしている。 だからこそ――絶対に、止めなければならないのだと。
ルキウスが去った後、謁見室には再び張り詰めた静寂が戻ってきた。
エドワードは玉座に深く背を預け、どこか遠くを見るような目で、静かに佇むエルを見つめた。
「……エル」
「はい」
「お前は、あいつを止めるつもりか」
エルはゆっくりと、だが一切の揺らぎのない声で、己の覚悟を口にした。
「はい。……それこそが、私の果たすべき務めです」
エドワードは、ほんの少しだけ寂しそうに目を細めた。だがその表情には、自らの意志で立ち上がった臣下への、確かな温かさと誇らしさが滲んでいた。
エドワードは静かに頷いた。
「……ならば、お前は、私の剣になったのだな」
エルは何も返さなかった。ただ、自らの引き締まった肉体に、静かな、けれどかつてないほど強固な「己の意志」を漲らせ、最敬礼を捧げた。
踵を返し、一歩ずつ、静かに謁見室を退室していく。
扉が重々しい音を立てて閉まり、広大な謁見室には、老いた皇帝だけが一人、静寂の中に取り残された。 薄暗い玉座の上、エドワードはゆっくりと、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
「……すまんな」
二本の剣は、ついに互いへ刃を向けてしまった。
皇帝は固く目を閉じた。




