第45話:皇帝の間
「……そうか。ならば、お前は城へ行くんだな」
ネアルコは静かに外套を羽織り、フードを目深に被り直した。
「ああ。私は帝国に残り、陛下との拝謁を取り付ける。泥沼の官僚組織を潜るより、直接本人に問う方が早い」
エルはそう言って、初めてネアルコの方を正面から見据えた。
「ネアルコ。お前はヴァルフォードへ戻り、我々がここで掴んだことを、ナスルーラ王女に報告するんだ」
「……わかった。ここまで辿り着いた答えを、そのまま殿下へ届ける」
ネアルコは小さく頷き、部屋の戸口へと歩みを進めた。扉に手をかけ、一度だけ振り返る。
「無茶はするなよ、エル」
「そのつもりだ」
エルは表情を崩さず、ただそれだけを返した。
翌朝。ネアルコはまだ夜が明けきらぬ帝都を立ち、寒風の中、ヴァルフォードを目指して馬を走らせた。
同じ頃、帝都の宮廷。エルの差し出した「緊急拝謁」の書状が、重々しい城の回廊を静かに運ばれていく。
二人の道は、ここで分かれた。一人は、帝国の中枢へ。一人は、ヴァルフォードへ。やがて、その二つの道は、六年前のあの日の真実へと収束していく。
早朝。夜来の雪が白く残る帝城の朝は、張り詰めた静寂に包まれていた。
エルは軍服の襟を正し、冷たい空気の中を、ゆっくりと城門へと歩みを進める。すれ違う兵士たちが、次々と背筋を伸ばして敬礼を送る。だが、その視線にはいつもと違う、張り詰めた色が混じっていた。
「皇帝への緊急拝謁」
その異例の手続きが持つ重さを、城に仕える者は誰もが肌で感じ取っていた。
皇帝の間へと続く、長く、天井の高い回廊。エルの硬い靴音が、大理石の床に規則正しく反響する。
歩きながら、エルの脳裏には幾つもの破片が浮かんでは消えた。六年前の北方。仕組まれた暴動。滞った交易。全てを統べる、巨大な盤面。ネアルコが現地で拾い集めた違和感と、エルが帝国内で精査した事実。そのすべてが、エルの頭の中で静かに結びついていた。
「私の剣になれ、エル」
かつて、若き日に皇帝エドワードからその言葉をかけられた日のこと。あの言葉から、自分の歩みは始まった。一人の武官として、揺るぎない忠誠を誓った主と、今、対峙しようとしている。
重厚な扉が静かに開き、エルは謁見室へと足を踏み入れた。
高い窓から朝の淡い光が差し込む部屋の片隅で、皇帝エドワードは静かに書類に目を落としていた。かつて多くの戦場を統べ、国を築いてきたその体からは、老いた今なお、周囲を圧する確かな覇気が立ち昇っている。
エルは音を立てずに近づき、その場に深く跪く。
「拝謁いたします、陛下」
エドワードは書類から目を離し、薄く笑みを浮かべた。
「珍しいな、エル。お前がこれほど急ぎの拝謁を願い出るとは」
その声には、直属の信頼厚き武官に対する、確かな温かさが滲んでいた。エルにとっても、エドワードは敬愛すべき存在である。だからこそ、これから口にする問いは、鉛のように重かった。
エルはゆっくりと顔を上げ、静かに、しかし澱みなく切り出した。
「陛下。六年前の北方戦争について、お伺いしたいことがあります」
エドワードの表情は動かない。ただ、威厳に満ちた鋭い眼差しでエルの言葉を待った。エルは、ここ数日にわたり積み重ねてきた推論を、静かに言葉へと変えた。
「あの暴動は、目的ではなかった。暴動の後、北方交易は急速に縮小し、それを止めようとする声もほとんど上がらなかった。……私は、この二つが偶然とは思えません」
エルは静かに顔を上げた。
「橋が落ち、救援が遅れ、暴動が広がり、その結果として北方そのものが『危険な土地』として帝国から切り離されていった。あまりにも、出来すぎている」
一拍置く。
「誰かが、六年前からその結果を見据えて盤面を動かしていた。違いますか」
静寂が、謁見室を支配する。エドワードは肯定も、否定もしない。だがその瞳の奥には、かつてない鋭い光が宿っている。
エルは臆することなく、自らの推論をさらに押し進めた。
「法案を通し、人事を動かし、国家そのものを動かす。この帝国で、それができる者は二人しか存在しません」
息を呑むような静寂の中、エルは言葉を刻む。
「……陛下」
「……あるいは、議長閣下」
長い沈黙が流れた。エドワードはゆっくりと目を細め、重々しく呟いた。
「……そこまで辿り着いたか」
その一言だけで、十分だった。エドワードはゆっくりと立ち上がり、窓の外へと視線を向けた。だが、その背中は多くを語ろうとはしない。
エルは跪いたまま、胸の奥に燻り続けていた、最後の疑問を静かに口にした。
「……ですが、一つだけ、どうしても分かりません」
エドワードがゆっくりと振り返る。
「帝国軍は、なぜヴァルフォードからの救援要請よりも『早く』出動できたのですか。あの時、公式な伝令はまだ届いていなかったはずです」
エドワードの表情に、微かな、そしてどこか深い諦念の混じった影が落ちた。
「……それは、私には答えられん」
エルが、驚きに微かに目を見開く。エドワードは、静かに玉座へと戻り、眼前の信頼する臣下をまっすぐに見つめ返した。
「それを知る男は、一人しかおらん」
エドワードは静かに告げた。
「ルキウスを呼べ」




