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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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第44話:盤面

北の国境を越えたネアルコは、そのまま帝国領へと入った。

だが、今回は正式な使者としての旅ではない。ヴァルフォードの軍人として堂々と入国すれば、帝国の監視下に置かれることは火を見るより明らかだった。泥にまみれた外套を羽織り、北方交易を扱うしがない地方商人へと身をやつす。手配した古びた荷馬車を引き、帝都を目指す商人の一団へ自然に紛れ込んだ。

街道を進むにつれ、不思議な光景が目につき始める。荷馬車は走っている。だが、その荷はどれも少ない。道そのものは広く整備されているにもかかわらず、どこか活気が薄かった。

「……こんなもんなのか」

何気なく漏らした独り言に、隣を歩く年老いた商人が苦笑する。

「いやぁ。あの暴動が起きるまでは、もっと賑やかだったさ」

老人は前方へ目を細めた。

「北方の鉱石や工芸品を積んだ馬車が、昼も夜も列を作ってた。宿場町なんざ、部屋が空かなくて困るくらいだった」

老人は肩をすくめる。

「今じゃ北の連中も元気がねぇ。せっかく鉄を打っても、帝国様が買ってくださらなくなっちまった」

それ以上は誰も続けなかった。荷車の軋む音だけが、乾いた街道へ長く響いていく。

やがて帝都の巨大な城門が見えてきた。検問を抜け、市街へ足を踏み入れた。

市場は賑わっていた。露店では客が値段を競り、荷運び人が忙しなく行き交う。一見すれば、活気ある帝都だった。それでも、どこか妙だった。

酒場の戸口から漏れる笑い声は小さい。商人同士が顔を寄せて話していても、誰かが周囲へ目を配ると、その話題は自然に途切れる。路地裏では兵士の姿を見かける。だが、それ以上に目につくのは、人々が兵士を見た瞬間、ごく当たり前のように口を閉ざすことだった。

誰も命じてはいない。それでも、街全体が見えない何かへ耳を澄ませているようだった。

ネアルコは外套のフードを深く被り、人波の中へ静かに紛れ込んでいった。

夜。人目を完全に避けたエルの私邸。

案内された薄暗い執務室で、エル・シャーリーは一人、机に向かっていた。机上には、広大な北方諸国の地図、国境の交易路、配置図、それから六年前の戦場となったヴァルフォード北部の古びた戦況図が、何枚も重ねて広げられている。

「よく戻った」

エルは顔を上げず、ただ低く、それだけを言った。

ネアルコは音もなく歩み寄り、懐から一枚の写しを机へ置いた。

同時多発だった暴動。 崩落した橋。 意図的に延期された修繕。 夜間だけ繰り返された大量輸送。 姿を消した仲介人。 暴動直前、安全圏へ移された役人。

「……ここまでしか、辿れなかった」

ネアルコがその紙を机の上に滑らせる。エルはそれを手に取り、蝋燭の細い火にかざしながら、吸い込まれるように読み耽った。

長い、長い沈黙が室内の空気を凍らせていく。やがて、エルは静かに紙を置いた。

「十分だ。これで一つ、辻褄が合う」

エルは、ネアルコが持ち帰った断片を、机の上の戦況図と交易路の地図のそばに並べた。

「ネアルコ。目的は、暴動そのものではない」

「どういうことだ?」

「暴動のあとに起きる変化こそが、本命だ」

エルは地図へと視線を落とした。細い指先が、北方から帝都へと延びる交易路の線をなぞる。

「その結果として、北方諸国は弱っていく」

「……弱る?」

「戦のあと、何が変わった」

ネアルコは、エルの指先を見つめた。その瞬間、道中で耳にした老商人の言葉、それから人影もまばらだったあの寒々しい街道の光景が、鮮烈に脳裏に蘇る。

「……交易、か」

「そうだ」

エルは別の調書へと指を移す。

「帝国は北方との交易量を大幅に減らした。しかも、議会でも民間でも、それに反対する声はほとんど上がらなかった。……なぜか」

エルはそこで、初めてネアルコを見る。

「……あそこでの暴動が、あまりにも危険だと、誰もが思い知らされたから……」

ネアルコが口にした答えに、エルは肯定も否定もしなかった。ただ、冷え切った眼差しを地図に戻す。

「説明としては成立する」

ネアルコは、背筋を這い上がる戦慄を抑えられなかった。もし、すべてが誰かの冷徹な計算のもと、その「結果」を導き出すために周到に準備された盤面だったとしたら。

「六年前」

エルは静かに椅子から立ち上がると、暗い窓の外を見つめた。ガラスの向こう、帝都の夜空から、静かに白い雪が舞い降りてきている。

「一つの暴動で終わった話ではなかった」

沈黙が執務室を包み込む。

「盤は、まだ動いている」

「……エル」

ネアルコがその名を呼ぶ声が、かすかに震えた。

「もし、この推論が正しいなら」

エルは窓の外を見つめたまま、静かに、氷の刃のような言葉を落とした。

「半年前のヴァルフォード陥落も……同じ盤の上に置かれた一手なのかもしれない」

エルは静かに帳簿を閉じ、机の上を片付け始めた。

ネアルコが現地で拾い集めてきた数々の違和感。それらはエルの手元にある帝国の資料と重なり合い、不気味な一本の線を形作っていた。だが、そこから先へ進むためのインクの跡は、もう机の上には残されていない。

「……これ以上は、資料からは出ないな」

エルの言葉に、ネアルコは腕を組んだ。

「これ以上、か。官僚どもの人事も、交易縮小の法案も、六年前のあの暴動を境に動いている。だが、誰がこれほど巨大な盤面を描き、実際に動かしたのか。その名だけが、どこにも残されていない」

「名が残らないこと自体が、この盤面を描いた者の痕跡だ。完璧に組織を動かす者ほど、自らの名は記録に残さない」

エルは片付ける手を止め、暗い窓の外を見つめた。夜の帳の向こう、雪の舞う帝都の街並みが冷ややかに沈んでいる。

「つまり、これ以上の追跡は不可能ということか」

「いや。まだ一つだけ、残されている」

エルは顔を半分だけ振り返らせ、静かに告げた。

「残るは、生き証人だけだ」

「……誰だ」

「皇帝陛下」

ネアルコは息を呑んだ。皇帝直属の武官であるエルにとって、皇帝への拝謁自体は不可能なことではない。だが、それは同時に、この盤面の最後の答えを、帝国の頂点へ確かめに行くことを意味していた。

真相へ辿り着く道は、もうそれしか残されていなかった。

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