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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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第43話:北に残る傷跡

エルから託された言葉は、ひどく簡潔なものだった。

『北方戦争を調べてくれ』

理由は聞いていない。あの明晰な頭脳が何を疑い、何を観測しようとしているのか、ネアルコにはまだ分からなかった。ただ、何かがあるのだろう、という確信だけが彼の足を北へと向かわせていた。

馬を乗り継ぎ、数日。

たどり着いた北の町は、凍てつく風が吹き抜ける、静かすぎる場所だった。六年前の戦の爪痕は、一見すると雪の下に隠されているように見える。だが、行き交う人々の声は少なく、誰もが必要以上に他人へ近づこうとはしない。人の視線だけは旅人を値踏みするように静かだった。

ネアルコは町外れにある小さな宿に腰を落ち着けた。質素な部屋に荷物を置き、一階の帳場へ降りる。手持ち無沙汰に薪をくべていた宿の主人に、ネアルコは何気ない調子で声をかけた。

「六年前の戦について、当時の様子を詳しく知っている者はいないか」

主人は手を止め、怪訝そうにネアルコの旅装を見やった。だが、その瞳に敵意がないことを認めると、少しだけ顎をさすってから静かに告げた。

「……広場裏の酒場へ行きな。この時間になると、昔話ばかりしてる老人たちがいる」

主人はそれだけ言うと、また薪の爆ぜる音の中に視線を戻した。ネアルコは短く礼を言い、外套の襟を立てて宿を出た。

昼下がりの酒場は、薪ストーブの匂いと、安酒のすえた臭いが充満していた。客の姿はまばらで、その片隅に、一人で濁った酒を煽る年老いた男がいた。日に焼けた顔と、不自然に強張った右足。戦を生き延びた老兵だと、一目で分かった。

ネアルコは無理に声をかけることはせず、その隣の席へと静かに腰を下ろした。店主に男と同じ安酒を頼み、ただ静かに口を付ける。喉を焼くような安物だった。

「今年も雪が早そうだな」

ネアルコはグラスを見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。老兵は最初、旅人の言葉を無視していた。だが、ネアルコが急かす風でもなく、ただ二杯目を注文したのを見て、わずかに視線を動かした。

「……ここの冬は、いつもこうさ」

ひび割れた声が返ってくる。

「猟は?」

「雪が深すぎて森へ入れねぇよ。ヘラジカの足跡も追えやしない。おかげでこうして、昼間から錆びついた身体を酒で誤魔化すしかねぇ」

天気の話。今年の雪。入れなくなった冬の森。

ネアルコはただの聞き手に徹し、相槌を打つ。男の愚痴を、ただ同じ温度のまま隣で受け止め続けた。

やがて、三杯目のグラスが空になる頃。老兵はふっと自嘲気味に笑い、ネアルコを正面から見据えた。

「……で、本当は何を聞きにきた、旅人」

隠しきれない軍人特有の鋭い眼光が、ネアルコへ向けられる。

「あんた、ただの旅人じゃねぇな。この時期に、こんな北まで来る物好きはいねぇ。手に、その目だ。人を探しに来た目じゃねぇ。戦を探しに来た目だ」

ネアルコは否定も肯定もしなかった。ただ静かにグラスを回し、その眼光を受け止める。

「六年前の戦だ。あの暴動が起きた最初の様子を知りたい」

老兵は深く息を吐き出し、天井の煤を見つめた。

「……異様だった」

その言葉に、これまでの愚痴のような軽さは一切なかった。

「暴動ってのはな、普通は一か所から火がついて、それが燃え広がるもんだ。だが、あの日は違った。町のあちこち、同時に火の手が上がった。それも、申し合わせたようにな。あんな広がり方は、長年兵隊をやってきたが一度も見たことがない」

同時多発。ネアルコは黙ってその言葉を頭の中に書き留める。

老兵は残った安酒を一気に飲み干すと、重い腰を上げた。

「俺が知ってるのはそれだけだ。だが……」

老兵は足を引きずりながら、立ち去り際にネアルコの背中へと言葉を落とした。

「あの時、届かなかった援軍の話なら、広場の裏で馬屋を営んでる伝令兵に聞きな。あいつはまだ、あの橋のことで自分を責め続けている」

広場の裏手。藁の匂いと、馬たちの荒い息遣いが響く薄暗い馬屋で、その男は黙々と馬具を磨いていた。かつて伝令兵だったという男の背中はどこか小さく、過去の重荷に押し潰されているように見えた。

ネアルコが近づき、酒場の老兵から話を聞いてここへ来たことを告げると、男は磨いていた手を止め、深く、長い溜息を吐いた。

「……またその話か。俺を責めに来たのか?」

男の声には、長い年月をかけて澱のように積もった悔恨が滲んでいた。

「俺が、もっと早く伝令を届けていれば。俺の足があと半刻早ければ、あの村の連中は皆、焼け死なずに済んだんだ」

ネアルコは男の震える肩をただ見つめ、責めるような口調は一切交えずに、静かに言葉を返した。

「あんたを責めるつもりはない。俺が知りたいのは、あの日、あんたの足が遅れた理由だ」

男は自嘲気味に笑い、力なく首を振った。

「理由? 橋だよ。村へ続く唯一の石橋が、あの日、跡形もなく崩落していやがった。だから俺は山道へ迂回するしかなかったんだ。必死で馬を走らせたが……たどり着いた時には、もう全てが終わっていた」

崩落した橋。山道への迂回。ネアルコは、その二つを静かに胸へ刻みつけた。男をこれ以上追いつめる必要はないと判断し、ネアルコは「すまなかった」と短く告げて、踵を返そうとした。

だが、その時だった。背後で、男がぽつりと、自分自身へ言い聞かせるように呟いた。

「……でも、今でも妙だと思うんだ」

ネアルコの足が止まる。

「俺の実家は石工なんだ。親父の背中を見て育ったから、橋の良し悪しくらいは分かる。あの橋は、この北の過酷な冬にも耐えられるよう、特上の石材で組まれた頑丈なものだった。それが、あの日に限って、不自然なくらい、きれいに崩れ落ちていたんだ」

石工の目から見た、不自然な崩落。ネアルコは振り返らず、ただ一度だけ深く頷くと、静かに馬屋を後にした。

あの橋を造り、守ってきた者なら、何か知っているかもしれない。ネアルコの視線は、すでに次なる「職人」の姿を追っていた。

町の片隅にある石切場。白く乾いた石粉が舞う作業場で、一人の年老いた石工が、のみと槌を手に石塊と向き合っていた。ネアルコが近づき、六年前の戦で崩落したあの石橋の名を口にすると、職人の叩く槌の音がぴたりと止まった。

向けられた目は、あからさまに警戒の色を帯びていた。

「……あの橋がどうした。もうとっくに架け直されたはずだ」

ネアルコは職人の硬い視線を受け止めながら、静かに語りかけた。

「崩れるような橋ではなかった、と聞いた。あんたたちの仕事なら、なおさらだ」

職人の眉がピクリと跳ね、のみを握る手に力がこもる。彼はフンと鼻を鳴らし、手元の石へ視線を戻した。

「当たり前だ。俺たちが造った橋だぞ。自然に崩れるわけがねぇ。……だがな、壊されたとも言わねぇよ。俺が見たのは、その前のことだ」

職人は槌を置くと、深く刻まれた額の皺を指でなぞった。

「あの戦が起きる半年前、橋の定期修繕の予定が急に取り消されたんだ。役所の担当が、上の命令だとか言って急に変わってな。新しい役人は、橋の補強なんて必要ねぇ、他へ予算を回すと言い出した」

修繕の延期。役人の交代。ネアルコは、その奇妙なねじれを静かに胸へ刻みつける。

「それだけじゃねぇ」

職人は周囲を気にするように声を潜めた。

「暴動が起きる数日前、夜中にあの橋を渡っていく荷車の数が異様に多かった。何を運んでるのかは知らねぇ。だが、あれほど重い荷を、あれほど何度も通す理由なんざ思いつかねぇ。……修繕を止められたばかりの橋だぞ」

それは、言葉にされない不自然な符牒だった。ネアルコは静かに目を細める。

「その役人に指示を出していた者がいるな」

「さあな。役人の後ろにいた奴の顔なんざ、俺らには見えねぇよ」

職人は吐き捨てるように言い、再び槌を握り直した。

「ただ、あの頃、この町で一番羽振りが良かった商人がいる。役所とも随分深く繋がっていたはずだ。そいつの名は――」

職人が口にした名前を、ネアルコは静かに頭の中へ書き留めた。

その足で、町外れの記録管理所へ向かった。

古びた人事記録と取引帳簿を辿ると、石工の話に出た役人の交代と、商人へ支払われた不自然な輸送費が、確かに記録として残されていた。

ネアルコは必要な箇所を書き写し、その商人の屋敷へ向かった。

暖炉の火が静かに爆ぜる豪奢な一室で、商人は上質な毛皮に身を包み、不機嫌そうに葉巻の煙を吐き出した。

ネアルコが差し出した役所の帳簿の写しを、商人は一瞥しただけで机へ放る。

「昔の話だ。役所と取引をして何が悪い」

追及され慣れた者の、隙のない拒絶だった。

ネアルコは帳簿を懐へ戻した。

「あんたほどの商人にしては、妙な取引だ」

葉巻を挟んだ指先が止まる。

「……何だと?」

「荷の中身も聞かず、夜だけ決まった道を走る。その代わり、相場外れの報酬を受け取った」

ネアルコは商人の目を見据えた。

「金額を決めたのは、あんたじゃない。向こうから、断れないほどの額を提示されたんじゃないか?」

商人は葉巻を灰皿へ叩きつけた。

「馬鹿を言うな。断れなかったんじゃない。あれは最初から、そういう契約だった」

商人は忌々しげに窓の外へ視線を向けた。

「急に役所に入り込んできた、素性の知れない仲介人がいたのさ。上からの紹介だと言ってな。そいつが、夜間に特定のルートで荷を運ぶことを条件に、法外な報酬を提示してきた。こちらの言い値すら呑むような、奇妙な男だったよ」

言い値を呑む仲介人。夜間の特定ルート。ネアルコは、その言葉を静かに胸の内に収める。

「その男は今どこに?」

ネアルコの短い問いに、商人は力なく首を振った。

「さあな。暴動が起きた翌朝には、溜まっていた報酬の金貨をすべて持ち去って、霧のように消え失せたよ。名乗っていた名前も、どうせ偽名だろう」

戦の直後に消えた、奇妙な仲介人。ネアルコは椅子から立ち上がり、静かに一礼して部屋を後にした。


その夜、ネアルコは宿の薄暗い一室で、机の上に数枚の紙を広げていた。

同時多発の暴動。

崩れ落ちた石橋。

修繕の延期。

夜間を走った重い荷馬車。

戦火とともに消えた謎の仲介人。

ネアルコは最後の一枚を机へ置いた。

それぞれ別々だった証言が、一枚の地図のようにつながっていく。それまで意味を持たなかった小さな歪みが、すべて同じ一点を指し示していた。

静まり返った部屋に、彼の低い呟きだけが落ちた。

「……偶然じゃない」

ネアルコは、並べた記録を指先で順になぞった。

崩落した橋。夜間輸送。修繕延期。

そして、確信を言葉にする。

「誰かが盤面を動かした」

だが――。ネアルコは静かに目を細め、並んだ紙を見つめ直す。

「……誰だ?」

そこから先を示す名前は、どこにも残されていなかった。仕掛けられた歪みのあまりの鮮やかさに反して、その主の尻尾は完全に闇の中に隠されている。

翌朝、ネアルコは外套の襟を立て、雪の降り始めた町を後にした。足元で凍てついた道を踏みしめながら、その視線はまっすぐに帝都へと向いている。

(エル)

ネアルコは胸の中で、静かにその名を呼んだ。

(俺の仕事はここまでだ)

(この盤面を組んだ奴は、まだ見えねぇ)

(あとは、お前の番だ)

馬の足音だけが、白く染まり始めた街道に静かに響いていた。

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