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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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第42話 失われた居場所

城下町の片隅、かつて商人たちが使っていたという薄暗い地下倉庫。そこが、現在のナスルーラたちの隠れ家だった。

シアが木製のおぼつかない扉を静かに開けると、室内には、蝋燭のわずかな灯りを頼りに、山積みの書類へペンを走らせる彼女の姿があった。書き連ねられているのは、潜伏する旧臣や、行き場を失った避難民たちの名簿。その横顔には、かつての華やかな面影はなく、張り詰めた疲労と、逃れられぬ義務感が滲んでいた。

入ってきたシアの気配に、ナスルーラはペンを止めた。部屋に満ちる、湿った空気と沈黙。シアの佇まいからただごとではない気配を察したのだろう、彼女の背が、かすかに強張る。

シアは何も言わず歩み寄り、粗末な机の上へ、一通の封筒を差し出した。小さな、革張りの封筒。その表面に押された、見紛うはずもないヴァルフォード王家の紋章。

その瞬間、指導者として張り詰めていた彼女の表情が完全に凍りついた。息を吸うことさえ忘れたように、ただ机の上の白を見つめている。

「……これは」

かすり切れた声が、彼女の唇から漏れた。伸ばされた指先が、目に見えて震えている。封筒の端に触れようとして、寸前で止まった。それが、あの日崩御した父の、最期の欠片であると本能が理解していた。

「エルが……」

シアは、その震える指先を見つめながら言った。

「ずっと、預かっていました。姫様に渡すために」

もし露見すれば、王家への内通を疑われてもおかしくなかった。それでも――半年もの間、彼はこの手紙を守り抜いてきた。その重みが、ナスルーラの胸に深く突き刺さる。

彼女は深く息を吐き出し、意を決したように封を切った。折り畳まれた羊皮紙を広げ、視線を落とした。

最初の数行を読んだ瞬間だった。彼女の目から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ち、羊皮紙のインクを滲ませた。

シアは、読まなかった。視線を落とし、ただ黙って、その時が過ぎるのを待った。部屋の中には、紙が擦れる微かな音と、押し殺した涙の気配だけが満ちている。この薄暗い隠れ家の一角だけは、誰にも侵してはならない聖域だった。

読み終えたあとも、長い沈黙が部屋を支配した。彼女は手紙をじっと見つめたまま、動かない。やがて。

「……お父様」

ぽつり、と。掠れた、小さな呟き。半年間、過酷な現実の中で指導者として張り詰めていた仮面が、今、完全に剥がれ落ちた。豪華な王城ではなく、この質素な地下室だからこそなれる、ただ亡き父を慕い、遺された言葉に震える、一人の娘だった。

シアは何も言わなかった。安易な言葉で慰めることもしない。ただ、冷たい部屋の中で、彼女の隣に立ち続けた。

彼女は手紙をそっと折り畳むと、愛おしそうに指の腹で触れた。

「最後まで……私を心配していたのですか。王としてではなく、ただの親として」

「はい」

シアの静かな声が、地下室に染み込んでいく。手紙に書かれていたのは、ただ娘の身を案じる父の無償の愛、それだけだったのだろう。彼女はそれ以上何も問わず、手紙を大切に胸へと抱きしめた。

彼女はゆっくりと立ち上がった。その瞳からはすでに涙が消えている。

「私は逃げません」

それは誰へ向けた言葉でもない。父から受け継いだ想いを、自らに刻みつける誓いだった。

「父が愛したこの地を、今度は私が守ります。このヴァルフォードの地で、私の全てを懸けて」

薄暗い地下室で、避難民の名簿を背に立ち上がるその姿には、暗闇の奥で静かに燃えるような、揺るぎない覚悟が宿っていた。

彼女は、手紙の入った封筒を胸に抱きしめながら、シアへと視線を向けた。

「届けてくださって、本当にありがとうございました、シア」

「私じゃないです」

少女は少し笑った。

「守っていたのは、エルですから」

彼女は胸の封筒を抱きしめ、小さく頷いた。

その日の夜。一人になったシアは、エルと打ち合った演習場の庭で、手の中の木剣を見つめていた。

昼間、エルの言った言葉が、静寂の中で蘇る。

『君は、自分の国が帝国に滅ぼされたと思っている。……違う。国王陛下は、帝国へ一つの願いを託された。腐敗した貴族たちを排除し、民だけは守ってほしい、と』 『これは、君にだけ伝える』

あの日、炎の中で穏やかに笑っていた王の、本当の選択。ナスルーラの前では、その真実に触れることすらしなかった。あれは、自分がエルから預かったものだからだ。

シアは目を閉じ、深く息を吐き出した。

託された手紙は、彼女へ。 託された重すぎる真実は、自分の胸へ。

あの青年がそうしたように、自分もまた、この秘密を誰にも明かさず守り抜く。 それが、彼から受け取った信頼への答えだった。

ゆっくりと木剣をプリンスローズに持ち替える。

シアは静かに剣を構えた。

行うのは、華々しい奇跡の技ではない。ただ、剣の基本の型。真っ直ぐに振り下ろし、真っ直ぐに突く。何千回、何万回と繰り返してきた、泥臭いまでの反復。

エルが去り、ナスルーラに想いを届け、重すぎる真実を胸に仕舞い込んだこの場所で、彼女はただ己の刃を研ぎ澄ますことだけに没頭していた。

やがて、全身を巡っていた激しい汗が引き、呼吸が完全に静寂へと同期する。

シアは動きを止めると、手にしたプリンスローズを、夜空に浮かぶ月へと緩やかにかざした。

(あなたは不思議)

心の中で、愛剣に語りかける。あの日、百人の軍勢を前にして宿した、あの理外の熱量。

少しの間を置き、シアは小さく呟いた。

「自由って」

「……こんなにも寒かったんだね」

「でも。……もう少しだけ、力を貸して」

プリンスローズは何も答えない。ただ、冷たい月光だけを、その白銀の刀身で淡々と照り返し続けていた。

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