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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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第41話:託されたもの

ヴァルフォード城の総督室に、帝都からの急使がもたらした一通の書状。それは、現皇帝エドワードの名を冠した「勅命」であった。

羊皮紙に記されたインクの文字は、恐ろしいほどに淡々と、そして事務的だった。

『ヴァルフォード総督エル・シャーリーを解任とする。あわせて、同地駐留軍特任長官シア・ロードンの任期を終了とする』

咎める言葉はない。ただ静かに、二人の役目だけが終わりを告げられていた。その事務的な更迭こそが、返す言葉を失わせるほどの重苦しさを室内に漂わせた。

エルは書状を一読すると、視線を落としたまま静かに呟いた。

「……そう来たか」

その声に動揺はなかった。ただ、思考の歯車が静かに噛み合い始める。

「そういうこともあるよね」

隣で内容を確認したシアは、少し驚いたように瞬きをした後、困ったような笑みを浮かべてそれを受け入れた。かつて王都陥落のあの日、生き残った民を守るために引き受けた長官の職。それが唐突に手元から消えた。せいせいしたわけでも、投げ出したいわけでもない。ただ、肩に載っていた重い何かが、ふっと消えていくような感覚だった。

「でも……これで、自由になったね」

少し寂しい気もするけど、とシアは苦笑した。

「役目は終わったけど、やることまでなくなったわけじゃないし」

シアはそう言って、少しだけ微笑んだ。その笑顔とは対照的に、エルの視線は机上の勅命から離れなかった。

(早すぎる)

リーフが死に、北方の物資流通の異常が発覚してから、この勅命が届くまでの期間が短すぎる。

(違う)

リーフが死んだから盤面が動いたのではない。 盤面は、最初からその先まで用意されていた。

エルは静かに勅命を畳んだ。ルキウスは、自分たちが一歩進むたびに、その先で待っている。すでに、次の一手は打たれていた。

総督府の退去準備が慌ただしく進む中、エルはシアを無人の演習場へと呼び出した。エルは自ら訓練用の木剣を抜くと、それを静かに構え、シアへ視線を向けた。

「一度だけ、剣を合わせてほしい」

シアは驚いて足を止める。エルの瞳は、いつもの均整を取り戻していた。

「それが終わったら、君に渡したいものがある」

エルの言葉に、シアは小さく瞬きをした後、拒むことなく訓練用の木剣を静かに構えた。その迷いのない構えを視線で受け止めながら、エルはさらに言葉を重ねる。

「理由は二つだ。一つは、私の身体がどこまで戦える状態に戻ったかを確かめたい。そしてもう一つは……君の剣が、どこまで人に通用し、どこから理を超えるのか。それを知っておきたい」

それは建前ではなかった。三年前、王国武闘大会。あの日、観客席から見たあの剣の軌跡。すべての事象を「理」で割り切ってきた天才にとって、シアの剣は唯一、計算式を狂わせる「理外の奇跡」だった。直接その刃を受け止めたことは、一度としてない。その正体を、この身で受けてみたかった。

打ち合いが始まった。最初は、互いに呼吸を測るような通常の剣戟だった。エルの剣は無駄がなく、流れるような合理そのもの。負傷の病み上がりとは思えぬ鋭さでシアの間合いを削り、優勢に立ち回る。

「……それでは意味がない」

エルが静かに言った。

「本気で来い」

シアは一瞬だけ困ったように笑う。

「……怪我しても知らないよ?」

「構わない」

シアの瞳の奥の光が変わった。すう、とシアが呼吸を変えた刹那――世界が一変した。

シアの姿が消えた。いや、違う。視界が追いつかない。

しかし、エルは動じない。肩。肘。踏み込み。わずかに残る情報だけを拾い上げ、脳内で剣筋を組み立てる。

(左か)

乾いた音が響く。受けた。しかし次の瞬間には、その予測すら置き去りにされる。

一合。さらに一合。理が積み上げた盤面を、目の前の少女は迷いなく飛び越えてくる。

そして――エルは木剣を静かに下ろした。

ぴたり、と。シアの切っ先が、喉元の寸前で止まる。

「……降参だ」

シアが目を見開く。

「え……?」

「続けても結果は変わらない」

エルは少しだけ口元を緩め、苦笑した。

「……勝てる気がしない」

その表情を見て、シアは思わず目を丸くした。

「あなたでも、そんな顔するんだ」

「するさ」

エルは珍しく肩をすくめた。

「理で説明できないものは苦手だ」

その言葉に、シアは思わず笑った。

「それは知ってる」

二人の間に、小さな笑いが落ちる。それは、二人が出会ってから、おそらく初めてのことだった。シアは少しだけ視線を逸らし、それでも笑ったまま続けた。

「私はね、考えてくる相手は苦手」

エルは一瞬だけ目を瞬かせた。沈黙が流れる。ほんの二秒。やがて、エルはふっと微かに笑った。

「……お互い様か」

「うん」

高い天井から差し込む柔らかな光の中で、埃の粒が静かに揺れている。その穏やかな空気のまま、二人は言葉なく小さく頷き合った。

やがてエルの視線が、天窓の空からシアの手元へと戻る。エルは静かに語り始めた。

「私は、国王陛下の最期に立ち会った」

その一言だけで、周囲の空気が張り詰めたものへと変わる。

「陛下は最後に、二つの遺言を私へ託された。一つはナスルーラ王女へ」

エルは懐から、小さな革張りの封筒を取り出した。王家の紋章が静かに刻まれたそれは、半年という時を経てもなお、大切に守られていた。

「王女はあの日、すでに王城を脱出していた。だから私は、この手紙を渡せなかった。今なら、君に託せると思った」

そっと差し出された封筒を、シアは両手で受け継ぐように受け取った。

「……必ず届ける」

エルは頷いた。

「もう一つ」

その声が少しだけ低くなる。

「これは、君にだけ伝える」

シアは黙って耳を傾けた。

「君は、自分の国が帝国に滅ぼされたと思っている」

「……違うの?」

「違う」

迷いのない声だった。

「国王陛下は、帝国へ一つの願いを託された。腐敗した貴族たちを排除し、民だけは守ってほしい、と」

シアの呼吸が、ぴたりと止まった。頭の上を冷たい衝撃が突き抜けていくような感覚のなか、言葉を失ってエルを見つめる。

「王は、このままでは国そのものが内側から崩壊すると悟っていた。内乱になれば、最も苦しむのは民だ。だから、自らすべての責任を背負う道を選ばれた」

エルは静かに続ける。

「あの日、君たちが命を懸けて守ろうとした王は、最期の瞬間まで、民を守ろうとしていた」

シアは、白銀の王家紋章が押された封筒を握る手に、指が白くなるほど力を込めた。

「……どうして」

ようやく漏れた声は、かすれていた。

「どうして、そのことを今まで……」

「話す必要がなかった」

エルは答える。そして、少しだけ視線を和らげた。

「いや。正確には……今の君なら、受け止められると思った」

長い沈黙が流れた。シアは俯き、何度か小さく息を整える。空間を満たす沈黙ののち、静かに顔を上げた。涙はなかった。その代わり、その瞳には以前よりもずっと強く、まっすぐな光が宿っていた。

エルは「やるべきことは終えた」とだけ告げた。少しの間を置いて、「私は帝国へ戻る」と口にし、踵を返す。

迷いのない足取りで無人の演習場を歩み去ろうとする、その背中に、

「エル」

数歩進んだところで、鈴を転がすような声が届いた。

足を戻すことはせず、エルはその場に立ち止まって黙って振り返る。シアは封筒を胸に抱えたまま、少しだけ笑った。その笑顔には、あの日王都で失ったものを、ようやく受け止められた静かな強さが宿っていた。もう、王を守れなかった自分を責め続ける必要はない。

「ありがとう」

エルは何も言わない。ただ一度だけ、小さく頷く。

それだけで十分だった。


数日後。帝都へ戻る支度を終えたヴァルフォード総督府は、驚くほどガランと静まり返っていた。荷は少なかった。あらかじめ整理されていた書面と、最低限の私物だけ。総督としてこの地に積み上げてきた公的な業績や権力の残滓は、すべてこの部屋に置いていく。

見送りに来たシアとエルの間に、余計な言葉はなかった。二人の会話は、最低限だった。

「必要になれば連絡する」

「うん。私もそうする」

握手も、再会の約束もない。互いに背を向ける。そこに湿っぽい感傷は一切存在しなかったが、それでも、互いの背中に預けた信頼の重さだけは、疑いようがなかった。

一人、歩を進めながら、エルの思考の歯車が回り出す。

皇帝直属兵団長。

その肩書きを纏ったまま、エル・シャーリーは帝国の中枢へ歩き出した。

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