第40話:盤上の男
「……ルキウス」
静まり返った部屋に、エル・シャーリーの低く、刃物めいた呟きが落とされた。その響きに含まれた重圧に、シアは思わず、腰の鞘に収まったプリンスローズの柄を、無意識に握り直していた。
「知っているのか?」
ネアルコが、鋭い視線をエルに投げかける。エルは机上に広げられたリーフの帳簿と流通記録を見つめたまま、声音を変えずに答えた。
「帝国議会議長。前皇帝の実子だ」
ネアルコが眉をひそめる。
「議長に、実子だぁ? なんだそりゃ。ただの役人の親玉じゃねえってことか?」
「実質的に帝国を動かしている人物です」
ナスルーラが硬い声音で引き継ぐ。
「なら、なおさらおかしいわ。なぜそのルキウスという男が玉座に就いていないの? 現皇帝のエドワードではなく、彼が指名されていてもおかしくないはずでしょう」
「……分からない」
エルは短く首を振った。
「前皇帝の指名がすべてを決するあの宮廷で、なぜ、実子である彼が指名されなかったのか。あるいは、彼が自らそれを拒んだのか……その真相は、私も聞いたことがない」
その一言が、決定的な謎として室内に落ちる。なぜ、彼は皇帝の座を譲ったのか。なぜ、リーフはそこまでルキウスという男を信奉し、その思想の手先となったのか。
「待って……」
シアが掠れた声を上げる。リーフと、彼が遺した異様な「救済」の街を思い返していた。
「でも、あのリーフという人は……確かに人を救っていた。手段は間違っていたけれど、苦しむ民を放っておけなかったのは本当じゃないの?」
「ええ、シア。それは事実でしょう」
ナスルーラが、悲哀の満ちた瞳でシアを見つめ返した。
「ですが、あの人は人を『人』としてではなく、ただの『仕組み』として救っていました。個人の感情や幸福を削ぎ落とし、全体が過不足なく生存するためだけの歯車として、人間を配置していたのです」
「善人だった。だから余計に怖ぇんだよ」
ネアルコが吐き捨てるように言った。リーフの行為が純粋な悪意から出たものであれば、まだ理解できた。だが、あれは狂信的なまでの「善意」による支配だったのだ。
エルは静かに腕を組んだ。
「……一つ、引っかかる」
全員の視線がエルに集まる。彼はその瞳に鋭い光を宿し、呟くように言った。
「あれほど完成された理論を、一地方の行政官が独力で築いたとは思えない」
その言葉に、部屋の空気が張り詰める。ルキウスがすべての黒幕であると断定したわけではない。しかし、あのリーフの脳内に、あまりにも強固に根付いていた「恐るべき救済の論理」――その源流となる巨大な存在が、帝国の玉座のすぐ傍にいるという事実が、全員の胸に重くのしかかった。
「リーフは、人々を争わせませんでした」
ナスルーラが静かに、けれど明確に言葉を紡ぐ。
「ですが、それは自由ではありません。もし……もし、あの秩序が、あの男の手によって帝国全体へ広がっているのだとしたら」
全員が言葉を失い、沈黙した。自分たちが対峙しようとしているものの規模が、国家そのものの大きさにまで膨れ上がっていく感覚に、シアは眩暈のような錯覚を覚えた。
エルは、卓上に広げられた地図を静かに見下ろした。
「……我々が戦う相手は、一人の男ではなく――一つの思想なのかもしれない」
彼らが立たされているのは、ただの戦場ではない。目に見えぬ巨大なチェス盤――その上で、一つの完成されたシステムが世界を吞み込もうとしている。
「おいおい、思想だのなんだの、急に話がデカくなりすぎだろ」
ネアルコが、鼻で笑うように、だがどこか苛立ったように吐き捨てた。
「あのリーフが作った気味の悪い街みてえな国を、これからは丸ごと相手にしろってか? そんな目に見えねえもん、剣でどうやって斬るんだよ。どうやって勝つんだ」
再び、重苦しい沈黙が部屋を満たす。シアは静かにプリンスローズの柄を握った。温もりはない。この剣で斬れるものと、決して斬れないものがある。どれほど己の技術を極めようとも、この掌にある剣では、世界を侵食する「仕組み」を傷つけることすらできないのではないか。
「……分からない」
シアの掠れた声に、ナスルーラもまた、力なく首を振った。
「私もです。どのような策を講じれば、あれほどの仕組みに勝てるのか……」
「私にも分からない」
あのエル・シャーリーすらも、即座の答えを持っていなかった。理詰めで勝利を引き寄せてきた天才が、明確な敗北ではなく「解法が見つからない」という壁にぶつかっている。
「だから調べる。ルキウスという男を。まだ分からないことが多すぎる」
エルは卓上の地図を見つめ直した。その静かな言葉は、来るべき戦いの始まりを告げる宣言そのものだった。
(リーフ。貴様は何を見ていた)
エルはページをめくるように、静かに視線を上げていた。その眼差しは、壁を越え、遥か彼方の帝国の首都へと向けられている。
(……そして、ルキウス。貴様は世界そのものを盤に変えようとしているのか)




