選択 第6話 皇帝
ドナテロ帝国の頂点へと続く階段は、どこまでも白く、そして不気味なほどに静まり返っていた。
召喚に応じ、エル・シャーリーが足を踏み入れたのは、豪華絢爛な謁見の間ではなかった。 高い天井から一条の陽光だけが差し込む、巨万の空間。 そこに、近衛兵の姿すらない。 ただ一人の男が、背もたれの高い無骨な玉座に腰を下ろしていた。
ドナテロ帝国現皇帝。 世界の半分を支配するシステムの、主宰者。
エルが床に片膝をつこうとした時、頭上から低く、だが驚くほど明瞭な声が響いた。
「形式は不要だ。面を上げよ」
エルが視線を上げると、皇帝は退屈そうに、だが全てを見透かすような冷徹な双眸で、22歳の青年騎士を見下ろしていた。
「ダーレイを見たか」
最初の問いは、あまりにも唐突だった。 エルは、一瞬だけ喉の奥が乾くのを感じながらも、あの日から一度も頭を離れない灰色の空を思い浮かべ、応じた。
「……見ました」
「どう思った」
「――間違っています」
エルの声には、確かな拒絶が混じっていた。 だが、皇帝は眉一つ動かさず、ただ静かに、次の刃を突きつけてきた。
「どこがだ」
「それは……」
エルは、言葉に詰まった。
本能的な嫌悪、倫理的な罪悪感。それならいくらでも吐き出せた。だが、戦術と法理を学んだエルの明晰な頭脳は、同時に理解してしまっていた。 あの地獄の命令を下した上層部も、現場で泣きながら火矢を放った騎士団長も、全員が「感染拡大阻止」「国民保護」「他州への影響回避」という正論のもとに、最も不確定要素の少ない最適解を選んだに過ぎないのだ。
誰も狂っていない。誰も間違っていない。 「正しさ」を突き詰めた結果、あの虐殺が導き出された。 だからこそ、反論の言葉が、エルの唇から出てこなかった。
沈黙するエルを見つめ、皇帝は玉座の肘置きに深く腕を預けた。
「エル。国を守るとは何だ」
エルは答えられない。
「五百を救って百万を滅ぼすか」
皇帝の淡々とした声が、広大な空間に冷たく響く。
「あるいは、五百を捨てて百万を守るか。お前なら、どちらを選ぶ」
エルは、強く奥歯を噛み締めた。 自分が徹夜で組み立てた代替案は、生存率60%の救済だった。それは裏を返せば、40%の確率でパンデミックを引き起こし、百万の民を死に追いやるギャンブルの数式に他ならない。
どちらを選べば「正しい」のか。 その問いの前に、エルの理性が沈黙を強制された。
「……どちらも、間違いだ」
皇帝の口から出た言葉に、エルは微かに目を見開いた。
「どちらも地獄だ。正解など、最初から存在しない」
皇帝の声には、怒りも、自己弁護もなかった。あるのは、ただ絶対的な事実としての冷徹さだけだった。
「だが――選ばなければならない。百万の命を天秤にかけ、賽を振る役目が要る。私はあの決定を、正しいと思って命じたのではない」
皇帝は、わずかに視線を落とした。その背中に、帝国という巨大な怪物を一人で背負う者の、圧倒的な質量がのしかかっているように見えた。
「私しか、命じられなかった」
その一言が、エルの胸に深く、鋭く刺さった。
エルは今まで、完璧に正しい人間が、完璧に正しい計算の果てに世界を導くのだと信じていた。 だが、目の前の最高権力者はそれを明確に否定した。世界を導くのは、正解を知る者ではない。
皇帝は静かにエルを見つめた。
「世界を導くのは、汚れる覚悟のある者だ」
皇帝はゆっくりと立ち上がり、エルの前へと歩み進めた。その足音は、軍靴のそれよりも静かで、だからこそ重い。
「お前を、私の直属兵団へ引き抜く」
唐突な人事に、エルの思考が一瞬停止した。 手柄を立てたわけではない。むしろ、代替案という名の反抗の書状を突きつけたばかりの若造だ。
「何故、私なのですか。私の剣が、それほどまでに優秀だと?」
「いや」
皇帝は短く首を振った。
「お前はまだ、苦しんでいる。だから選んだ」
エルには、その真意が理解できなかった。
「あの日、あの村で、苦しまなくなった者から順番に壊れていったはずだ。理性を麻痺させ、思考を放棄した人形にならなければ、あの光景には耐えられんからな。……だが、お前はまだ壊れていない。数字の裏にある痛みを引きずったまま、ここに立っている」
皇帝の冷たい手が、エルの肩へと置かれた。
「私の剣になれ、エル」
「……断れば」
エルの精一杯の抵抗に、皇帝は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「断ってもいい。お前の自由だ」
皇帝は手を離し、再び玉座へと背を向けた。
「だが、いずれお前は同じ場所へ来る」
なぜなら――。
「お前は、私と同じものを見てしまったからだ」
背後から響くその声を最後に、エルは何も言わなかった。 言い返せなかったのではない。言葉が見つからなかった。
正しさでは、世界は守れない。 エルは、初めて皇帝から目を逸らした。




