選択 第5話 帰還
帝都の門をくぐるドナテロ帝国の軍靴は、相変わらず規則正しく、傲慢なほどに均一だった。
数日間の行軍を経て帰還したシャーリー隊を、帝都の眩い陽光が出迎えた。 かつてエルが見上げ、誇りに思っていたはずの白亜の街並み。だが、今の彼の瞳に映るそれは、どこかくすんだ灰色に見えていた。
任務完了の報告を終えたのち、シャーリー隊に与えられたのは、不自然なほどに長い「休暇」だった。 功績を称えられたわけでも、罰を与えられたわけでもない。ただ、上層部はこの一件を闇に葬り、彼らに何事もなかったかのように日常へ戻ることを求めた。
だが、日常はもう、どこにも存在しなかった。
エルの耳には、毎日のように部下たちの「変化」が届いていた。
いつも周囲を笑わせていた気のいい若手兵は、あの日以来、完全に笑い声を失い、ただ人形のように命令に従うだけの木偶となった。 実家が商人で、熱心に軍規を学んでいた優秀な中堅は、帰還したその日に震える手で退役願を出した。 ある者は毎夜のように酒場へ通い、泥酔しては路地裏で胃の中のものをぶちまけ、またある者は、宿舎のベッドで夜中に突然激しく嘔吐した。
全員が、狂ったわけではない。彼らは今も優秀で、規律正しい帝国の兵士だ。 ただ、何かが確実に死んでいた。
エルもまた、同じだった。
自室の机に向かい、あの日置いていった分厚い法学書を開く。 だが、文字が滑る。どれほど瞳を凝らしても、整然と並ぶインクの羅列が、ただの無意味な黒い染みにしか見えなかった。
以前なら、そこには世界を最適化するための「正解」が書かれていると信じていた。
だが今は、どれほど美麗な法理を読んでも、その紙の裏から、あの日網膜に焼き付いた炎の揺らめきが、そして「四百八十六」という数字が、じわりと滲み出てくるようだった。
気分転換のためにと、エルは軍服を脱ぎ、平服で帝都の中央広場へと向かった。
陽光の降り注ぐ広場。 そこでは、子供たちが泥まみれになって走り回り、楽しそうな笑い声を上げていた。 家々の窓は開け放たれ、焼きたてのパンの香ばしい匂いが風に乗って運ばれてくる。
かつて、彼が「守るべきもの」だと誇った、帝国の完璧な平和の光景。
――なのに、今のエルには、目の前の子供たちの口元が動くたび、あの日峠から見た「笑い声の聞こえなかった広場」が重なって見えた。 開け放たれた窓を見るたび、あの村の「一つも開かなかった窓」の、不気味な黒い拒絶が脳裏をよぎった。
そこで、エルは気づいてしまった。 冷たい汗が、背筋を伝い落ちる。
ダーレイ村を焼いたのは、不条理な暴君でも、血に飢えた狂人でもない。 本部にいたあの疲弊した騎士団長も、泣きながら火矢を放った兵士たちも、そして黒封書にサインを求めた上層部の官僚たちも。全員が、この帝都の平和を維持するために、誰よりも真面目に、誰よりも優秀に、それぞれの職務を「正しく」遂行しただけなのだ。
誰も間違っていない。 誰も狂っていない。
この美しい帝都の平和は、あの「四百八十六人の白紙」という合理的な生贄の上に、あまりにも綺麗に、完璧に成立している。
(帝国は、正しい人間によって動いている)
(だからこそ――これほどまでに恐ろしいのだ)
悪が引き起こした悲劇なら、その悪を裁けばいい。だが、このシステムは、それぞれの責務と正論によって回っている。その事実が、22歳の青年の理性を、内側から完璧に融解させていった。
夕暮れ時。自室に戻ったエルの机の上に、一通の書状が置かれていた。
それは、見紛うはずのない【黒封書】。 だが、そこに刻まれていた蝋の紋章は、騎士団本部のものではなかった。
ドナテロ帝国、現皇帝の直系印。 最高権力者からの、直接の召喚状だった。
エルは、その黒蝋を見つめる。 不思議と驚きはなかった。いつか呼ばれる気がしていた。ダーレイ村を焼いた、その日から。
まるで、自分が何かを失った瞬間を、皇帝だけが見ていたかのように。




