選択 第4話 最適解
駐屯地の一室。夜、ロウソクの炎が爆ぜる音だけが、エルの耳に届いていた。
エルは机にかじりつき、狂ったように羽ペンを走らせていた。 白紙の羊皮紙は、瞬く間に数式と言葉で埋め尽くされていく。
『感染者の完全隔離および接触者の第一期~第三期への分類』
『周辺属州への街道に設ける、計六箇所の戦術的封鎖線』
『物資移送の工程と、生存者を最大化する食糧配分』
彼の天才的な頭脳は、かつてない速度で回転していた。 諦めるわけにはいかなかった。帝国が民を守るためのシステムであるならば、それを機能させるのが、法と戦術を学んだ自分の役目のはずだ。
翌朝。一睡もせず、目の下に黒い隈を刻んだエルは、完成した束を騎士団長の前に突きつけた。
「……これが、私の導き出した代替案です、閣下。これならば、生存者を残したままパンデミックを抑え込めます」
騎士団長は、差し出された書類に血走った目を落とした。 数分後。彼は一度もペンを執ることなく、その書類を静かに机の端へ退けた。
「……却下だ」
「何故ですか!」
エルは、生まれて初めて上司の決定に声を荒らげた。
「計算は完璧です。封鎖線を構築すれば、他州への流出確率は限りなく抑えられる!」
「時間がない」
騎士団長の声は、死人のように平坦だった。
「お前の計画は、すべての工程が完璧に噛み合って、ようやく機能する。だが、どこか一つでも綻べば、感染は防げない。上層部が求めているのは『努力目標』ではない。確実な『遮断』だ」
ここで、エルは初めて理解した。
問題は、方法が無いことではなかった。 方法はある。エル自身が今、ここに作り上げた。 だが、その成功確率は、せいぜい60パーセント。
帝国が選んだのは、成功率60%の救済ではなく、成功率95%の虐殺だった。 それが、帝国という巨大な機構が導き出した、最も「合理的」な計算結果。
エルの頭の中で、何かがみしりと音を立てて軋んだ。
村の境界に、朝を告げる鐘の音が響き渡った。
「避難命令」だと思い、安堵の表情を浮かべて家々から出てきた村人たちを待っていたのは、彼らを円形に包囲する、帝国軍の冷徹な鉄の壁だった。
何かがおかしいと気づいた時には、すでに遅かった。
「……放て」
短い号令。 火矢が空を覆った。 悲鳴。 誰かが何かを叫んでいる。 炎。 人影。 門。 槍。 炎。 叫び声。 炎。
――炎。
気づけば。 空は赤ではなく、灰色になっていた。
昼過ぎ。ダーレイ村は、一面の黒い焼け跡と化していた。
風が吹くたび、焦げ臭い灰がエルの白い軍服を汚していく。 周囲では、数人の兵士が胃の中のものをぶちまけ、ある者は地面に膝をついて音もなく泣いていた。
「……終わったぞ、エル」
隣に立った騎士団長が、ひどく掠れた声で呟いた。
エルは、濁った瞳を動かさないまま、引き結んだ唇を開いた。その声は、驚くほど冷静で、だからこそ恐ろしく響いた。
「……閣下。一つ、教えてください」
「何だ」
「今回の件、最終的な『感染確認者』は何人だったのですか」
騎士団長は、灰の降る空を見上げたまま、短く応じた。
「……十四人だ」
村人、五百人。 感染者、十四人。
四百八十六。
エルは、自分の呼吸が止まるのを感じた。
彼がこれまで信奉し、世界の正解だと信じていた「数値化された平和」が、この瞬間、完全に裏返った。
数字は、民を救うためだけにあるのではない。 五百人の中の、わずか「十四人」という不確定要素を確実に消去するためだけに、残りの「四百八十六人」を白紙に戻す。そういう破滅の最適解を導き出すためにも、数字は使われるのだ。
足元を見る。 黒く焦げた地面に、一人の子供が持っていたであろう、半分焼け落ちた小さな木彫りの玩具が転がっていた。それは、昨日峠から見た、笑い声の聞こえなかった広場で、誰かが握りしめていたものかもしれない。
エルは、腰のハイペリオンの柄を、指が白くなるほどに強く握りしめた。
帝国の法は、完璧だ。 帝国の軍も、完璧に合理的だ。
――だが。 帝国は、本当に民を守っているのか。




