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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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選択 第3話 理想郷

ドナテロ帝国の軍靴が刻む足音は、常に規則正しく、傲慢なほどに均一だった。 シャーリー隊の行軍が始まって数日。 街道沿いの景色は、帝国の徹底された法秩序の恩恵をそのまま体現していた。そこには、エル・シャーリーが信奉する「数値化された平和」が確かに息づいていた。


夜、野営地で横になっても、騎士団本部の机に置いてきた分厚い法学書のことを、エルは時折思い出していた。人間という不確定な要素を、完璧な法と戦術の数式によって最適化する。それこそが正解だと、この時の彼は一点の疑いも持っていなかった。 北へ進む道中、エルが手に入れた現地の帳簿は、その理想を証明するように完璧だった。人口統計、税収、移住記録。数字は近隣のどの地域よりも優秀である。 それだけではない。街道の宿場町で「次の目的地はダーレイ村だ」と漏らせば、宿屋の主人は好意的な笑みを浮かべた。

「ああ、ダーレイですか。あそこは実にいいところですよ。土地は豊かだし、若い連中も規律正しくて、帝国の手本のような村だ」

すれ違う老商人も、満足げに頷いていた。

「あそこの小麦は質が良い。関わって損は無い場所さ」

データの上でも、民の口から語られる評判でも、そこは間違いなく帝国の理想郷だった。


行軍の最終日。シャーリー隊は、険しい峠の頂へと達した。 「隊長。見えます」

先頭を行く現地の斥候兵が指差した先。山あいにひっそりと佇む、ダーレイ村の遠景が、夕暮れの赤い光の中に浮かび上がっていた。 美しく区画整理された畑の広場で、子供たちが泥まみれになって走り回っている。 家々の煙突からは、夕飯の支度を告げる穏やかな煙が立ち上っている。

だが――。 子供たちの口は動いているのに、その笑い声が、峠のこちら側まで一切響いてこない。 白い煙は夕風に揺れているのに、並ぶ家々の窓は、ただの一つも開いていなかった。 煙は昇り、人は動き、畑は耕されている。 まるで、精巧なミニチュアを見せられているかのような、おぞましい静寂。

「……隊長。ここが、ダーレイです」

沈みゆく夕日が、血のような赤で村を染め上げていく。 エルの冷徹な瞳に、生まれて初めて「理屈の通らない不穏」の影が、深く刻み込まれた。 村の内部へ足を踏み入れたシャーリー隊を待っていたのは、さらなる異常だった。 村の中央広場へと続くすべての路地は、頑強な木柵と鉄条網によって「隔離区域」として厳重に封鎖されていた。だが、その檻の向こうでは、村人たちが普通に暮らしているのだ。 洗濯物を干す母親がいて、泥まみれで走り回る子供たちがいる。ただ、その肌には微かに、どす黒い斑点のような不気味な痣が浮かんでいた。


村の駐屯地本部。エルを待っていたのは、今回の任務の総指揮官を務める帝国騎士団長だった。

「……説明を求めます、閣下」

エルは、精一杯の理性を保った切迫した声をぶつけていた。 エルの前に開示されたのは、帝国の最高機密だった。 ここで密かに行われていたのは、致死率100%を誇る、極めて感染力の高い細菌を使用した生物兵器の研究。そして数日前、その研究施設から致死性の菌が漏洩したという最悪の事実。

「パンデミックを防ぐための隔離だ」

騎士団長は、酷く疲弊した顔でそう言った。何日も眠っていないのだろう。その目は血走り、胃を苛むストレスに耐えるように、引き結んだ唇は青白い。彼の目にも、周囲の兵士たちの目にも、吐き気を催すような圧迫感が張り付いている。

「ならば、即座に避難を」

エルは迷わず具申した。

「村人を別の場所へ移送し、しかるべき隔離治療を施すべきです」

「無理だ」

騎士団長は短く首を振った。

「すでに感染確認者は十数名。潜伏期間中の接触者は把握不能。感染経路の追跡は完全に破綻している。今この500人を動かせば、街道を通じて周囲の属州へ確実に広がる」

「ならば、治療を。本国から最高の医療班を呼び寄せるべきです」

「ない」

騎士団長の声は冷え切っていた。

「治療法など、最初から研究されていない」

「……っ、では、今すぐ研究資料を解析し、解毒の糸口を――」

「死んだ」

遮るような声だった。

「研究者どもは、最初の感染爆発で全員が罹患し、施設の中で全滅した」

すべてが、最悪の形で詰んでいた。 だが、エルの頭脳はまだ諦めていなかった。22歳の彼は、まだ「帝国は民を守るためにある」という崇高な理想を信じている。何か方法があるはずだ。この500人を見捨てずに済む方法が。帝国の法も、軍も、そのために存在しているはずなのだから。

「エル」

騎士団長が、ひどく重く、震える手で、一通の書状をエルの前に差し出した。 すでに開封され、蝋の痕跡が無残に残された【黒封書】。 最高位の裁可でしか発行されない、帝国の「絶対の意思」である。

「お前が絶望する前に、これを見ろ。……これが、上層部が導き出した『合理的結論』だ」

エルは、差し出された羊皮紙に視線を落とした。 そこに並んでいたのは、あまりにも冷酷で、あまりにも整然とした、無機質な軍令の文字だった。


『ダーレイ村における不確定要素の完全なる排除。 感染拡大予測、および国際的機密保持の観点に基づき――当該区画を、生存者もろとも、物理的に消去せよ』


「……っ」

本部のなかに、ロウソクの爆ぜる音だけが響いた。 誰も笑っていない。悪人が、誰もいない。騎士団長も、周囲の兵士たちも、全員がその決定の恐ろしさに吐き気を堪え、震えながら、しかし「これしかない」と自らの理性を受け入れようとしていた。全員が苦しんでいた。そして誰も、この決定を正しいと思えてはいなかった。

自らが信じ、学び、殉じてきた帝国が、この美しい村を「消す」という結論を導き出した。 その事実だけが、どうしても理解できなかった。

「お待ちください……」

エルの手の中で、羊皮紙が微かに震える。上司の前で辛うじて保った敬語の裏で、彼の理性が激しく軋んでいた。

「お待ちください、閣下。まだ、方法はあるはずです」


あるはずなのだ。 帝国は、民を守るために存在するのだから。

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