選択 第2話 黒蝋の命令
破られた黒蝋の破片が、机の上で小さな音を立てて転がった。 詰所の空気は、凍りついたまま動かない。 窓の向こうの帝都の喧騒は、まるでそこだけ遠い異国の出来事であるかのように、部屋の中の静寂に弾かれていた。
部下たちは一言も発さず、ただ机の前に立つエルの手元を、固唾を呑んで見つめる。 エルは羊皮紙に記された僅か数行の文字列を、漆黒の瞳に映していた。
『シャーリー隊は直ちに、北方属州・ダーレイ村へ急行せよ。 本件は特級機密に属する。現地司令官と合流の上、その指示に従うこと。 対外秘。任務内容の口外を一切禁ずる』
あまりに短く、あまりに素っ気ない。 だが、その文字列の行間をなぞるエルの指先が、僅かに止まった。 理由が、どこにも書かれていない。 普通なら、どのような機密案件であろうとも『内乱の兆候あり』だとか『国境警備の補強』『大規模な山賊の掃討』といった、出兵の最低限の大義名分が記されているものだ。それすらも秘匿される場合は、せいぜい皇宮の内部闘争に関わる暗殺の類くらいのものだが、今回の目的地は王都から遠く離れた北方の辺境――ダーレイという、聞いたこともない小さな村だった。
「……副長」
若い部下が、耐えかねたように声を潜めて尋ねる。
「何なんです、その書状。内乱系の、物騒なやつですか?」
エルはしばらく沈黙し、それからゆっくりと羊皮紙を畳んだ。
「……分からない」
その声に虚勢はなかった。知らないことを知ったふりで誤魔化す器用さを、エルは持っていなかった。ただただ誠実に、軍人として、目の前の奇妙な空白を事実として受け止めていた。 「理由は書かれていない。だが、皇帝陛下の私印が押されている以上、我々が果たすべき義務に変わりはない。……出立の準備を」
エルの言葉を境に、詰所は一気に慌ただしいノイズに包まれた。
「うわ、北方かよ! あそこ、この時期でも夜は信じられないくらい冷えるんですよねぇ」
「おい、遠征用の保存食、そっちの嚢に突っ込んどけ! 干し肉多めな!」
「待ってくれ、手紙……あと三行で書き終わるから、出す時間をくれ!」
若手たちは、まるで遠征も日常の続きであるかのように、ぼやき、笑い合っている。誰かが恋人へ宛てた手紙の、インクの甘い匂いが部屋に漂っていた。
エルは自分の机に向かうと、そそくさと法学書を机の端へと置いた。帰ってきたら、またこの頁の続きをめくる。その当然の未来を疑うことなく、彼は代わりに、壁に立てかけられていた名剣ハイペリオンを手に取った。
ずしりと、歴史の染みついた鋼の重みが、掌を通じて伝わってくる。 腰の帯革にその鞘を差すとき、エルの胸を満たしていたのは、高潔な誇りと、国家への絶対的な忠誠だった。この剣は、シャーリー家の責務であり、帝国の正義そのものだ。この剣を振るうことは、そのまま民の命を、国の安寧を護ることに繋がると、22歳の彼は心から信じていた。
「エル」
詰所の出入り口で、低く掠れた声がした。 振り返ると、そこに立っていたのは、エルの父親の代からシャーリー家と親交があり、エルを我が子のように可愛がっている中年の上官だった。
「――閣下」
エルが居住まいを正そうとすると、上官はそれを手で制した。 その顔は、いつも部下を怒鳴り散らしている時の快活さが嘘のように、妙に暗く、歯切れが悪そうに歪んでいた。
「出立か」
「は。直ちに北方へ向かいます」
「そうか」
上官はエルの腰のハイペリオンをじっと見つめ、それから、絞り出すように言った。
「……エル。何を見ても、軽率に動くなよ」
その奇妙な響きに、エルは怪訝そうに眉を寄せた。
「任務の詳細をご存じなのですか」
上官は答えなかった。ただ、エルの若い肩を、痛いほどの力で一度だけ強く掴んだ。
「お前は、優秀だ。……優秀すぎる。だからこそ、現地では、決して感情で物事を判断するな。いいな」
「……は。肝に銘じます」
エルは真っ直ぐに答えた。 彼はその言葉を、帝国の重鎮からの私への期待と、冷静な指揮を求める信頼であると、そう好意的に解釈した。その裏側に潜む、胃を掻きむしるような悲痛な警告の意味を、まだ知る由もなかった。
間もなく、馬の嘶きと共に、シャーリー隊は帝都の巨大な城門をくぐった。 斜陽の帝都は、息を呑むほどに美しかった。 風にたなびく巨大な帝国旗を鮮やかな真紅に染め、街道の脇では、家路に就く市民の活気が満ち溢れている。
子供たちの笑い声が、夕暮れの石畳を跳ねていた。 エルは無意識に、その光景を目で追っていた。
(守らなければならない)
胸の奥で、静かに、けれど鋼のように固い誓いが満ちていく。この平和を、この子供たちの笑顔を護るために、自分はハイペリオンを携えて戦地へ赴くのだと、本気でそう信じていた。
だが、馬の歩みを進め、帝都の街並みが遥か背後へと遠ざかっていくにつれ、 街道の先に見える北の空だけが、じわり、と――異常な黒さで曇り始めているのが見えた。
光あふれる帝都の背後で、その北の果てだけが、まるで世界の肉がそこから腐り落ちていくかのように、重く、淀んだ暗雲に閉ざされている。 エルはただ、その曇天の先を、漆黒の瞳で見据え続けていた。




