過去編 選択 第1話 若き騎士
窓から吹き込む初夏の風は、詰所のあちこちに積み上げられた書類を、パタパタと遠慮なく揺らしていた。
帝都の午後には、馬車の泥の匂いと、焼き菓子の甘い香り、時計塔の鐘の音が重なり合い、平和な喧騒となって窓から流れ込んでくる。
「おい、副長! またそんな、頭の痛くなりそうな本を読んでる!」
大きな声と共に、目の前の机にゴトリと冷たい水瓶が置かれた。 声を上げて笑っているのは、今年入隊したばかりの若い部下だ。その向こうの長椅子では、数人の兵士たちが甲冑を半分脱いだ気の抜けた姿で、昨夜の酒の銘柄についてくだらない言い争いをしている。
エルは頁から目を離さず、細い指先でただ一枚、風に煽られた紙面を押さえた。 彼が広げているのは、他の騎士たちが貪るように読む『最新剣技の型と実戦』のような、血生臭い武勲の書ではない。表紙に金泥で『属州統治における地方自治規定・補遺』と打たれた、分厚く、退屈な法学の書物だった。
「剣だけでどこまでも勝てるんだから、そんな勉強、俺たちみたいな凡人に譲ってくださいよ」
別の部下が、からかうようにエルの顔を覗き込む。
「お前たちみたいなのが、いつか地方の治安を預かったときに書類一枚まともに書けなくて泣くんだ」
エルは頁をめくりながら、小さく息を吐いて笑った。
「そのときに、代わりに泣かされるのは領民だからな。今のうちに少しは法を頭に入れておけ」
「へいへい。やっぱり、シャーリー家の次期当主様は言うことの格が違うや」
部下たちは大袈裟に肩をすくめ、またすぐに別の冗談へと興じていく。 その賑やかなノイズを、エルはいつものように聞き流しながら、また静かに頁をめくった。
がたり、と誰かの甲冑の膝が、机の横に立てかけられていた一本の剣に触れそうになった。
「うお、あぶねえ! おい、気をつけろよ!」
「ひえっ、す、すみません、ハイペリオンに傷でもつけたら、俺の首が飛びます……!」
兵士たちが一斉に顔を青くして、その剣から半歩遠ざかる。 帝国が誇る名門、シャーリー家。その血筋にのみ受け継がれるという、武の頂点の象徴――名剣ハイペリオン。 幾多の戦場を潜り抜けてきたその刀身は、華美な装飾を排し、歴史を感じさせる鈍い鋼の輝きを放っていた。ただ無造作に壁へ立てかけられているだけでも、周囲の空気を冷たく引き締めるような、異様な威圧感がある。
けれど、エルは本から顔を上げることすらなく、短く応じただけだった。
「別に、触ったくらいで減るものじゃない。気にするな」
「いや、俺たちのほうが気にするんですよ。それ、国宝みたいなもんでしょ……」
部下は苦笑しながら、畏れ多いというように首を振る。 エルにとって、この名剣も、周囲から嘱望される「武の頂点」という席も、すべてはただの通過点に過ぎなかった。
前線で武功を立て、この剣を父へ返す。 その後は、自分の望む政の道へ進む。 いつか属州統治院へ入り、法と制度によって民を護る。それこそが、エルの描いた、確固たる自身の人生設計だった。
エルは革の栞を挟み、静かに本を閉じた。ふと窓の外を見上げた。 どこまでも高い、帝都の青空。 その光をいっぱいに浴びて、何万、何十万という市民が、今日という平和な一日を当たり前に謳歌している。
(この強き帝国は、民を守るためにある)
エルの胸の奥には、一滴の濁りもなく、その正義が息づいていた。法を学び、国を整え、この穏やかな喧騒をどこまでも守り続けること。
それが、22歳の彼が見晴かす、希望に満ちた前途のすべてだった。 その、刹那だった。 ドタドタと、詰所の外の廊下を、ひどく歪な足音が駆けてくるのが聞こえた。 いつもの、泥まみれの見習い騎士たちの足音ではない。もっと硬く、逼迫した、不吉な金属の擦れる音。
「――失礼します!」
勢いよく跳ね上がった扉の向こうに立っていたのは、帝都中央からの伝令兵だった。 息は激しく上がり、その顔面は泥と汗、そして、奇妙なほどに血の気を失って真っ白に強張っている。
「……なんだ、また辺境の小競り合いですかね」
一人の部下が空気を和らげようと、いつも通りの軽口を叩いた。 だが、伝令兵は笑わなかった。それどころか、部屋の中央にいるエルを見つめるその瞳は、ひどく暗く沈んでいた。 伝令兵は一言も発さず、ただ一枚の書状をエルの前に差し出した。 厚手の羊皮紙。 その中央で、黒い蝋が、不気味なほど冷徹に帝国の紋章を刻み込んで固まっている。 皇帝直属、あるいはそれと同等の、最上位の機密を意味する「黒蝋の封書」。
「副長……?」
部下たちの雑多なノイズが、その黒い塊を見た瞬間、嘘のように、じわりと引いていった。 エルは何も言わず、その書状を受け取った。 指先で、冷えた黒蝋をパキリと割り、静かに封を切る。 次の瞬間だった。 さっきまで、あれほど部屋の中の紙を乱暴に揺らしていた初夏の風が、 ピタリと、嘘のように止まった。
開いた窓の向こう、帝都の青空は何一つ変わらず、どこまでも美しく晴れ渡っているというのに。 その部屋の空気だけが、二度と戻らない冬の底へと、静かに、音もなく、凍りついていった。




