第39話 災厄
「……詰んだ」
ネアルコの口から、乾いた呟きが漏れる。
退路は完全に閉ざされ、高所からの射線、百名近い暗殺者、傭兵、毒使い、弓兵。すべてがこの一瞬のために完成されていた。
リーフは静かに手を上げた。
「皆様、ここで消えていただきます。……始めなさい」
その瞬間、張り詰めた敵の人垣が、左右へと静かに割れた。奥からゆっくりと前へ出る男が一人。その男の左手首には、あるべき手がなく、鈍く光る義刃が埋め込まれている。
『一人だけ逃がした。左手首は斬ったがな』
脳裏に蘇るエルの言葉。シアの顔から完全に温度が消える。
「……あなたね。エルを……傷つけたのは」
「その女には手を出すな。俺の獲物だ」
男が凶悪に笑い、義刃の切っ先をシアへ向ける。
「ほかは予定通り殺せ」
その声を合図に、高所の弓兵が一斉に弦を引き絞った。
毒使いたちが左右へ散り、傭兵たちがネアルコとナスルーラへ向かって踏み込む。 左手のない男だけが、その流れに逆らうようにシアの正面へ立った。
ネアルコが荒い呼吸とともに剣を抜く。だが、シアだけが奇妙なほど静かだった。
彼女は後ろを振り返り、怯えるナスルーラと、その前に立つネアルコを視線に収める。 その脳裏に、鉄扉の向こうで身を寄せ合っていた孤児たちの姿が浮かんだ。
(守る。)
その想いだけが胸を満たした瞬間、手の中の剣がふっと温もりを帯びた。
刹那、白銀が走る。
シアの姿が掻き消える。 その進路へ、義刃が横薙ぎに振るわれた。
ギィンッ!!
白銀と鈍色が激突し、激しい火花が散る。
「やはり、そこか」
男は笑った。 シアの動きを見切ったわけではない。ただ、獣じみた勘だけで、彼女が通る場所へ刃を置いていた。
だが、シアは止まらない。 義刃を受け流し、その脇をすり抜ける。
一閃。 弓弦だけが音を立てて切れた。
二閃。 槍が、剣が、短刀が、毒針が、次々と宙を舞う。
その軌跡へ、義刃が食らいつく。 一度。二度。 男だけが白銀を追い、シアの進路を狂わせようとする。 だが、その刃が届く寸前、シアは別の兵士の懐へ滑り込んでいた。
三閃。 人が倒れる。
断末魔は上がらない。 白銀は、喉ではなく肩を。心臓ではなく手首を。首ではなく脚を。 命ではなく、戦う力だけを、正確に奪っていく。
風など一吹きもしない坑道の中で、幾筋もの白銀だけが、薔薇の花びらのように静かに舞っていた。
やがて猛烈な嵐が止むように、唐突な静寂が坑道を支配した。
百人近い軍勢が、武器を取り落としたまま坑道に折り重なるように倒れていた。誰一人として立ち上がれない。だが、その胸は確実に上下していた。
暗殺者が、荒い息の奥で笑った。
「なるほど……」
倒れた百人を見回し、再びシアへ視線を戻す。
「これが、あいつの見た景色か。俺を相手にしながら、全員を生かしたか」
一拍置いて、男が再び地を蹴った。
見えない白銀。それでも義刃だけが迷いなくその軌跡を捉える。
「……勘だけだ!」
激しく散る火花。男は極限の野生を頼りに、義刃を一直線にシアの首元へ振るった。
しかし——そこに誰もいない。
「……!」
男の右膝から、突然力が抜けた。 腱を断ち切られたと悟るより早く、プリンスローズの柄が顎を打ち抜く。
巨体が大きく揺らぐ。 それでも男は倒れず、血の混じった笑みを浮かべた。
「なるほどな……あいつが、俺を生かした理由は……これだったか」
次の瞬間、義刃を支える肩へ白銀が走った。
歴戦の怪物は、最後まで不敵な笑みを残したまま、地面へと崩れ落ちた。
シアは荒く息を吐きながら、その光景を見渡した。
(この人たちを倒しても、終わらない。また誰かが救われ、また誰かがこの仕組みへ組み込まれる)
(止めなきゃ。この仕組みを)
視線を上げると、坑道の奥にリーフが立っていた。
リーフの視線が、倒れ伏した配下たちを静かになぞる。 誰一人、死んでいない。 その事実だけが、初めて彼の穏やかな表情を、ほんのわずかに揺らした。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほど。」
リーフは静かに踵を返すと、壁際の太い止水板へ手を掛けた。
「この坑道は、地下水脈と繋がっています。盤面を守るためには、証拠も、この施設も、ここで閉じなければなりません。」
ギギギ……
ドォォォォォッ!!
轟音とともに濁流が坑道へ流れ込んだ。 水路から噴き出した地下水が床を這い、最下層へ向かって急速に広がっていく。この空間が水で満たされるまで、長くはない。
「逃げろ!」
ネアルコが鉄扉へ駆け寄るが、扉は開かない。
リーフが懐から鉄鍵を取り出す。
「この盤面は、ここで終わります。」
シアは一歩前へ出る。
「お願い。鍵を渡して。」
「それはできません。ですが、それが最適解です。」
シアは静かに目を閉じ——次の瞬間、白銀が一閃した。
リーフの右肩を鋭く貫く。
「っ……!」
手から落ちた鉄鍵をシアが拾い、ネアルコへ投げる。
ネアルコは鍵を受け取り、鉄扉を開けると同時に棚から固い革袋を引き抜いた。
「帳簿だ! 流通記録もある! これだけは流せねぇ!」
シアは振り返り、座り込むリーフへ静かに手を差し伸べる。
「来て。」
リーフは小さく笑った。
「……最後まで、あなたは、人を見捨てませんか。」
シアはなおも手を伸ばそうとしたが、背後で負傷者たちの苦痛の呻きと悲鳴が上がった。
ハッとして振り返るシア。 再びリーフを見つめ直すと、彼はもう静かに首を横に振っていた。
「ありがとうございます。ですが、結構です。私は管理者です。盤面と運命を共にします。……行きなさい。あなたには、まだ救うべき人がいる」
静かにシアを見つめる。
「あなたは至宝ではない。——災厄でした。」
濁流が彼の足を飲み込んでいく。シアは唇を噛み、差し伸ばした手を下ろすと、脱出へ向かって翻った。
「閣下……申し訳、ありません……」
水音だけが響く中、ネアルコが叫んだ。
「動ける者は負傷者を運べ! 急げ!」
ネアルコの怒声が坑道を打った。
まだ脚の動く者が、立てない仲間へ肩を貸す。腕を負傷した者は、倒れた者の衣服を掴んで引きずった。ナスルーラも濡れた裾を顧みず、一人の兵士の身体を支える。
シアもまた、足元に倒れていた左手のない男を肩へ担ぎ上げた。
王都の一室。
エルの待つ部屋で、シアたちは報告を行っていた。
ネアルコが濡れた革袋から帳簿と流通記録を取り出し、机の上に広げる。
「百人に囲まれて終わったと思ったが、シアのおかげで脱出できた。……だが、持ち帰ったこの帳簿、送り先は全部消されている」
エルが帳簿へ手を伸ばす。
「送り先が……?」
「ああ。だが、一つだけ共通して消されていないものがあった。決裁印だ」
ネアルコが指し示したページを、エルが凝視する。
監査責任者・リーフの署名。 そして、その上から捺された重々しい印影。
『帝国議会監査局』
「……監査局」
エルが静かに呟く。
「持ち帰った記録の通り、リーフは単なる現場の責任者だ。彼の上に、この巨大な盤面を指示していた人物がいる」
ネアルコが頷く。
「あいつは死ぬ間際、『閣下……申し訳ありません』と言い残した」
エルは静かに目を閉じた。
監査局。 北部。 「閣下」という呼称。 そして、消された送り先。
帝国議会監査局。その人事と予算を直接握る者を、エルは一人しか知らない。
点だった情報が、一本の線になっていく。
ゆっくりと目を開くエルの瞳には、氷のような確信が宿っていた。
「……ルキウス」




