第35話:影の北
夜が明けても、王都はまだ焦げ臭かった。
「……長官。東区画の放火現場、鎮火いたしました。ですが二次災害の危険があります」
「分かったわ。駐留軍の工兵隊を回して。救護所の医療物資は?」
「王女殿下に従う穏健派の者たちが夜通しで手配してくれたおかげで、看取りの麻薬以外は最低限が揃っております」
「……そう。ありがとう。続けてちょうだい」
伝令の兵士を送り出し、シア・ロードンは深く息を吐いた。一睡もしていない。彼女の黒い軍服は、泥と、煤と、自分のものではない乾いた血液で赤黒く汚れていた。
王都の復旧は、帝国軍だけでは到底手が足りなかった。暴動を止めようとしていた反乱軍穏健派もまた、救護や治安維持に駆り出されている。皮肉なことに、昨日まで敵だった者たちが、今は同じ瓦礫を片付けていた。
孤児院は守れた。だが、その一歩外側では守れなかった人々が確実にいる。運ばれていく毛布に包まれた遺体を見るたび、シアの胸の奥が冷たい刃で抉られるように痛んだ。
「シア、あまり根を詰めるな。お前まで倒れたら、それこそこの街は終わりだ」
背後から声をかけてきたのは、傷をおして徹夜で暴徒の残党を狩り集めていたネアルコだった。暴動を止めようとした功績と残党狩りへの協力を理由に、彼は今や総督府への出入りを許されている。
「平気よ。それより……エルの様子は?」
ネアルコはふん、と鼻で不機嫌そうに息を鳴らした。
「最悪だな。今にもくたばりそうなツラしてやがる。それなのに、さっきは包帯まみれの体でベッドから這い出て、執務室に行こうとしやがった。医官が泣きながら縋り付いてたよ。……本気で殴り倒して気絶させてやろうかと思ったね」
幸い、医官による解毒処置が間に合い、エルは辛うじて一命を取り留めていた。
ネアルコは腕を組み、不満げに視線を逸らした。だが、シアの横を通り過ぎる瞬間、ぽつりと苦い本音を漏らした。
「……気に食わねぇんだよ。あいつに死なれると、今の王都が困るって……そう思っちまってる自分がな。反吐が出る」
仲間を殺した男だ。今でも許したわけではない。だが同時に、昨夜この街を救った男でもある。認めざるを得ない自分への嫌悪と混乱が、その横顔に滲んでいた。
「……ありがとう、ネアルコ。様子を見てくるわ」
シアはエルの待つ医務室へと早足で向かった。
ドアを開けると、案の定、紙のように白い顔をした総督が、ベッドの上に上体を起こし、報告書に手を伸ばそうとしているところだった。
「エル!」
「……騒々しいぞ、シア。かすり傷だと言ったはずだ。王都の被害状況の集計はどうなっている。それから暗殺者の――」
「大人しくしていて!」
シアはベッドの傍らに歩み寄り、エルの肩をベッドへと力強く押し戻した。その手には強い意志がこもっている。
「王都の巡回も、復興作業の指揮も、すべて私がやります。あなたの代わりに、私が前線に立ちます」
「……貴公一人に背負えるほど、総督の職務は甘くない」
「甘くなくてもやります! だから、あなたはそこに寝ていて。今度一歩でもベッドから出たら、私がそのハイペリオンをへし折って、南の湖に投げ捨ててやるわ」
エルの瞳が、驚きに僅かに見開かれる。いつもなら自分の不遜な言葉に萎縮していた少女が、今は自分を完全に圧するほどの「統治者」の目をしていた。
「……ふん」
エルは自嘲気味に息を漏らし、枕に頭を沈めた。
「そこまで言うなら、好きにするがいい。……ただし、報告だけは二時間に一回持ってこい」
「……絶対に、動かないでね」
キツく念を押し、シアは医務室を出た。張り詰めていた緊張が一気に解け、壁に背中を預ける。
過激派の行動はあまりにも異常だった。王都の警備の薄い場所、復興資材の置き場、そしてエルが単独になるタイミング。そのすべてを狙い澄ましたかのように準備が良すぎる。
(単なる、暴徒の暴発じゃない……。誰かが、裏からすべてを支えている?)
守り抜いたはずの広場の向こうに、さらに巨大な「影」が蠢いている予感に、シアは背筋が凍りつくのだった。
「……やはり、な」
医務室のベッドの上で、エル・シャーリーは血の混じったため息と共に報告書を睨みつけた。
シアとの約束通り部屋から出てはいないが、エルは自分直属の兵士に、昨夜の戦場で回収された「遺留品」のリストをすべて運ばせていた。
『帝国製・新型軍用弩弓』
『北の密輸網由来の混合火薬』
『特殊な暗号符』
どれも出所が違いすぎる。まるで、それぞれの専門家が一つの目的のために最高のパーツを持ち寄ったかのようだった。
「誰かがこれらすべての手綱を握り、北街道を通じてこの王都へ流し込んだ。……間違いない。これは暴動ではなく、極めて計画的な『軍事作戦』だ」
エルは焼けるように痛む胸元を押さえ、背もたれに身体を預けた。思考だけは研ぎ澄まされている。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
入ってきたのは、見慣れない男だった。仕立ての良い帝国の官僚服を着た、四十歳前後の落ち着いた男。その口元には、見る者を安心させる柔らかい微笑が浮かんでいた。
「初めてお目にかかります。本国より物資流通の建て直しと監査のために派遣されました、物流監査官のリーフ・ドーノックと申します」
男は非の打ち所のない完璧な一礼をした。
「……物流監査官か。本国もずいぶんと素早い対応だな」
「ハハ、実は暴動の数日前には到着しておりまして。現在、ロードン卿のお手伝いをしております。駐留軍の若い兵士たちも、よく私の指示に従って動いてくれておりまして」
エルの眉が僅かに動いた。
「……ほう。兵が、貴公の指示に従っていると?」
「ええ、復興を早めるためです。……おっと、長居はお身体に障りますね。何か必要な物資がございましたら何なりとお申し付けください」
リーフは温和な笑みを崩さぬまま静かに去っていった。
静まり返った部屋の中で、エルはドアの向こうを見つめたまま呟いた。
「……妙だな」
理由が分からない。男の言葉にも経歴にも何一つ怪しい点はない。だが、戦術家としての勘が、得体の知れない強烈な寒気を告げていた。
あの男には、匂いがない。修羅場となった王都に身を置きながら、恐怖も野心もへつらいすらも一切漂ってこない。完璧に作り込まれた無機質な人形と話しているかのような違和感。
エルは手元の地図の中央に、その『無臭の男』の駒を静かに置いた。
王都の北外れ、崩れかけた地下貯蔵庫。
ネアルコは昨夜の過激派に武器を横流ししていた北の商人を追い詰め、壁際へ叩きつけていた。
「言え! 誰に頼まれた!」
「知らねぇ! 顔も見てねぇ! 手紙と金が届くだけだ!」
商人は顔面蒼白で叫んだ。
「『北から仕事が来た』って、それだけなんだよ! 俺は指定された場所に武器を運んだだけだ!」
「北の、どこから――」
ネアルコがさらに刃を突き詰めた、その瞬間だった。
ピシッ、ピシッ、と風切り音が響く。
「……っ! 」
ネアルコが咄嗟に伏せる。
直後、商人の額と、横にいた過激派の頭部に短い太矢が深く突き刺さった。二人は即死だった。
「チッ、通気口か!」
ネアルコが天井を見上げたが、朝の冷たい空気が流れ込んでくるだけで、既に気配すら残っていない。
狙撃の精度、そして躊躇のなさ。
「口封じか……クソが」
敵は一枚上手だ。自分たちがこの商人に辿り着くことすら計算に入っていたかのような手際。ネアルコは愛剣を鞘に収め、闇が深く居座る北の空を強く睨みつけた。
王都の地下にある臨時の救護所。
ナスルーラは擦り切れた袖をまくり、負傷した少年の額を拭っていた。
過激派の異常な暴発、完璧すぎる情報、そして背後にチラつく巨大な影。彼女は胸の奥の不穏な違和感を拭えずにいた。
(私は、何も知らない……)
孤児院で何が起きたのか。過激派はなぜ暴走したのか。王都で何人が死んだのか。自分はすべてを誰かから聞いただけだった。
この国の民が傷つき、騎士たちが血を流したというのに、王女である自分は何一つ自分の目で確かめていない。
(自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の頭で考えなければならない。たとえ相手が帝国総督であろうと)
ナスルーラは息を吐き、救護所の階段を見上げた。王都で最も多くの情報を握るあの男のもとへ行くべく、彼女は歩みを進めた。
総督府の医務室。
「……お珍しいお越しですね、王女殿下」
ベッドの上に上体を起こしたエルは、静かな眼差しでナスルーラを迎えた。
「誰から聞いた話でもなく、私自身の頭で考えるために参りました。……閣下、あの夜の暴動をどう見ておられるのですか」
「公式には過激派の暴発と我が軍による鎮圧。……ですが、殿下が求めておられるのはその答えではないでしょう」
エルは手元の報告書を置いた。
「殿下の感じられた違和感は正しい。あの夜の暴動は、我々の動きも過激派の暴走も、すべてはある一つの目的に向けて誘導されていたのです」
「では、一体誰が……」
「事態は殿下の想像よりも遥かに深刻です。我々の視線が、この王都だけに向けられていたからです。……過激派に情報を流し、武器を流し込んだ者の影は、ヴァルフォードの、さらに『北』にございます」
北。その一言に、ナスルーラの指先が微かに震えた。




