第34話:狩る者
「長官!」
過激派の捕縛が概ね完了した孤児院の前で、若い将校が一本の弩弓を抱え、シアのもとへ駆け寄ってきた。
「押収した武器を確認しましたが……妙です」
シアは怪訝そうにそれを受け取る。
「どうしたの?」
「王国軍の規格ではありません」
将校は声を潜め、周囲を警戒しながら信じがたい事実を口にした。
「現行の『帝国軍』の最新鋭支給品です」
シアの手の中で、冷たい鉄の重みが一気に増したように感じられた。
(反乱軍の生き残りが、なぜ帝国軍の最新武器を……? 誰かが彼らを利用している?)
その不気味な違和感が胸をよぎった、まさにその時だった。
「長官……っ! 総督閣下の救援部隊より急報です……っ!!」
血相を変えた伝令兵が、馬を潰さんばかりの勢いに任せて路地に飛び込んできた。泥にまみれ、落馬するように地面に転がりながら叫ぶ。
「最大被害地区の救援に向かわれた、本隊ですが……っ! 敵の伏兵による、大規模な火計と包囲を受けました!」
「なに……!?」
「閣下の本隊は完全に分断され、現在――連絡が、途絶いたしました!!」
「――エルが!?」
シアは弩弓を強く握りしめたまま、炎に染まる王都の夜空へと跳ねるように顔を上げた。
――少し時は遡る。
シアが孤児院の前で過激派を迎え撃つ、わずか数十分前。王都の北東区画では、すでに新たな地獄が幕を開けようとしていた。
総督エル・シャーリーの本隊が到着したのは、王都で最も傷跡の深い地区だった。いまなお再建工事が続き、街区の至る所に復興の足場が組まれている。
再建途中の建物の柱が夜空へ黒々と突きだし、建材用の木材や工事資材が各所に積み上げられていた。道路には排水工事のための深い穴が、いくつも口を開けている。エルは馬上から、それらを静かに見渡していた。
そこには、暴徒の姿もなければ、民衆の怒号もなかった。ただ、不気味なほどの静寂だけが街を支配している。
「……閣下、お引き返しを」
副官が周囲の闇を警戒し、緊張で声を硬くした。不自然なほど人影のない通り。エルはさらに視線を巡らせ、小さく呟いた。
「妙だな」
その呟きが呼び水となったかのように、次の瞬間、四方の資材置き場から爆発的な火の手が上がった。
火計。
乾燥した木材や油を仕込まれた建材が一斉に激しく燃え上がり、火柱となって夜空へ突き刺さる。熱風が吹き荒れ、組まれていた足場が轟音を立てて倒壊した。兵士たちの悲鳴と馬のいななきが黒煙の中に消えていく。退路は一瞬にして炎の壁によって遮断された。
「閣下――!」
退避を叫んだ副官の姿が、倒壊した建材と激しい炎の向こうへと遮られ、一瞬でかき消される。本隊の大部分は、その炎の壁によって完全に分断されてしまった。
さらに、炎の向こうから雄叫びを上げて躍り出た過激派の群れが、分断された兵士たちへ容赦なく襲いかかる。
「閣下、こちらへ!」
数人の護衛がエルの馬を引き、辛うじて炎の薄い広場へと逃れた。だが、背後から迫る過激派を食い止めるため、彼らは一人、また一人と炎の中へ戻っていく。
馬から降りたエルは、周囲を炎の壁に囲まれた広場に取り残された。立ち上る煙を鋭く見据え、手袋をはめた手で顎に触れる。
「ここまで用意したか」
エルは静かに息を吐いた。王都全域を巻き込んだ暴動。その本命が誰であるかを、彼はようやく理解した。
その瞳に、冷たい光が宿る。
「なるほど。私か」
パチパチと建材がはぜる音だけが響く広場。その炎の向こうから、一人の男が滑り込むように現れた。
音も立てず、気配すら狂わせるような異様な静けさ。男は全身に漆黒の衣服を纏い、その両手には、不気味な鈍色に光る二本の短刀が握られていた。
エルは一目で察した。この男は暴徒ではない。怒りでも信念でも動いていない。ただ殺すためだけに鍛え上げられた存在だ。
「お前は王国の人間ではないな」
エルが淡々と問いかける。暗殺者は何も答えない。
「北から来たか」
男の肩が、ほんの一寸だけ、微かに動いた。エルはその反応を見逃さなかった。
「なるほど」
エルの唇が、僅かに歪む。
暗殺者は、その言葉の意図を測ろうともしなかった。ただ無感情に双刃を構え、獲物との距離を詰める。
エルは腰の剣――『ハイペリオン』の柄に手をかけた。滅多に抜かれることのない総督の剣が、静かに鞘を離れる。抜き放たれた刃は、燃え盛る周囲の炎を反射しながらも、決して揺るがない冷たい輝きを放っていた。
「ならば、確かめる必要もない」
切っ先が僅かに持ち上がる。
「貴様をここで狩る」
次の瞬間、エルが踏み込んだ。細身の体躯からは想像もつかない速度だった。剣の切っ先が、一瞬にして暗殺者の喉元へと殺到する。
しかし、当たらない。
暗殺者の身のこなしは、人間のそれとは明らかに異なっていた。「速い」のではない。人間ならあり得ない角度で身体が折れ曲がる。まるで獣だった。
エルの攻撃を紙一重で躱しながら、暗殺者の左手が不気味に閃いた。衣服の隙間から、含み針、投擲刃、毒針が一斉に放たれる。四方から迫る暗殺の道具が、エルの死角を突いた。
「チッ……!」
エルは小さく舌打ちをすると、剣の腹で投擲刃を弾き落とし、身を翻して針を避けた。
数合の交差。火花が散り、互いの刃が噛み合うたびに、エルは確信を深めていった。武人ではない。暗闇で首を刈るためだけに磨かれた、陰惨な技術だ。
(……持久戦だ)
攻勢を捨てる。守りに徹し、時間を稼ぐ。守勢を維持しながら時間を稼げば、王都の駐留軍か、あるいはシアの援軍が必ずここに到達する。
焦るべきは、相手のはずだった。
しかし、暗殺者は面頬の奥で、ククッ、と低く嗤った。その歪んだ笑みを見た瞬間、エルの脳裏に、かすかな違和感が走った。
その違和感の正体を、エルはすぐに思い知ることになる。
焦る様子など微塵もない暗殺者が、さらなる猛攻を仕掛けてくる。二本の短刀が黒い竜巻となって、エルの全方位から襲いかかった。執拗なまでの連撃。
エルは下がる。
下がりながら、必死に剣で防ぎ、受け、捌く。だが、超人的な獣の速度を誇る暗殺者の刃を、完全に防ぎ切ることは不可能だった。
(……おかしい)
エルは自らの身体の異変に気づいた。浅い傷であるはずなのに、出血の量が多すぎる。傷口が焼けるように熱く、そして、急速に身体が鉛のように重くなっていく。視界が不規則に揺れ、呼吸が劇的に浅くなる。
毒だ。
それも、血液の凝固を防ぎ、赤血球を破壊していく「溶血毒」。
暗殺者の顔が、愉悦に歪んでいた。最初から、一撃で殺す必要などなかったのだ。浅い傷を無数に付け、毒を回し、獲物が衰弱して動けなくなるのを安全な距離から楽しむ。それがこの男の猟りのやり方だった。
エルは、膝が笑いそうになるのを必死に堪え、濁りかける視界の奥で、目の前の男を静かに見つめた。
エルは血を吐き出しながら、凍てつくような声で言った。
「……一つ、教えてやる」
暗殺者はその言葉を嘲笑うように、さらに距離を詰めて短刀を振るう。
「戦場では――」
エルの頬を、刃が掠めて血が舞う。
「お前のような、命を弄ぶ狂った人間から、先に死ぬ」
暗殺者は何も答えなかった。だが、その双刃だけが僅かに速度を増す。それだけで十分だった。
(やはり、いるな。背後に)
エルは後退を続けていた。もはや足元はおぼつかず、流れる血の量が限界を示している。誰の目から見ても、総督エル・シャーリーが完全に追い詰められたように見えた。
暗殺者は、完全に勝利を確信していた。
一歩。また一歩。血を流しながら、エルは下がる。誰の目にも敗走だった。だが、その後退には一歩たりとも無駄がなかった。
「死ねッ!!」
暗殺者が地面を強く蹴り、必死の一撃を放つべく、エルの胸元へと真っ直ぐに踏み込んだ。
その瞬間だった。
暗殺者の身体が、不自然に傾いた。
バキキッ、と足場板が割れる音が響く。男の右足が、闇に隠されていた工事穴へと落ち込んだ。復興工事のために掘り返され、放置されていた、排水工事のための深い穴。
それまで防戦一方だったエルが、初めて前へ出た。
凍てつく一閃が、夜闇を走った。
ヒュン、と肉を切る音が響き、暗殺者の左手首が、手にした短刀ごと虚空を舞った。
「ぎゃあああああああああッッッ!!!!」
静寂の広場に、男の凄まじい断末魔が響き渡る。だが、暗殺者もただでは倒れない。男は手首を失った激痛に狂いながらも、獣の執念で右手の短刀を逆手に握り直し、肉を切らせて骨を断つ覚悟で、エルの喉元へと決死の突きを放った。
「くっ……!」
エルは顔を背け、柄頭でその刃を辛うじて弾き上げる。暗殺者の右刃はエルの肩を深く切り裂いたが、エルは怯まない。そのまま体重を乗せた鋭い前蹴りで、暗殺者の胸元を容赦なく踏み抜いた。
ドガッ、と重い音がして、暗殺者の身体が炎の壁の向こうへと派手に転がっていく。
毒と失血によって、エルの肉体はすでに限界を迎えていた。だが、彼はそれを絶対に見せなかった。剣を正眼に構えたまま、微動だにせず、氷のような視線だけで、血塗れで立ち上がる暗殺者を見下ろしている。
手首を失い、右手の短刀も弾かれた暗殺者は、もはや戦う術がないことを悟り、狂ったように後退を始めた。炎の壁の隙間へと滑り込み、撤退を選択する。
エルは追わなかった。追うだけの肉体的な余力は、一歩分すら残されていなかったからだ。だが、彼は構えを微塵も崩さず、逃げ出す暗殺者の背中に向けて、氷の刃のような言葉を叩きつけた。
「お前の主人に伝えろ」
暗殺者の足が、その声の持つ圧倒的な威圧感に、一瞬だけ停止した。エルは血塗れの口元で、薄く笑った。
「王都の暴動だけでは足りなかったか」
さらに、重い一歩を踏み出す。
「私を殺さねばならない理由があるらしいな」
その宣告を聞いた暗殺者は、弾かれたように夜の闇、炎の向こうへと消え去っていった。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
「エルッ!!」
立ち込める白煙を切り裂き、白い閃光が広場へと飛び込んできた。愛馬を走らせ、息を切らせて駆けつけたシア・ロードンだった。
彼女の視界に飛び込んできたのは、壊滅した街並み。その中央で、全身血まみれになりながらも、剣を地面に突き立て、毅然と立ち尽くしている一人の男の姿だった。
「エル!」
シアは馬から飛び降りるようにして駆け寄り、その身体を支えた。
「……遅い」
「あなた、その身体……! すぐに応急処置を――」
「構うな。まだ死んではいない。貴公の初陣を、葬式で飾ってやるわけにはいかないからな」
エルは煤と血に汚れた顔で、いつものように短く告げた。
シアはその細い身体をしっかりと抱きとめながら、安堵を滲ませる。
「……生きてたのね」
「残念だったな」
エルはシアに身体を支えられたまま、その肩を強く掴み、瞳にギラリとした捕食者の光を宿らせた。
「シア。確信した。王都を襲ったのは、単なる過激派でも、反乱軍の生き残りでもない。その憎悪を都合よく操り、私を暗殺しようとした『より巨大な意思』が、北の闇の向こうにいる」
シアが表情を引き締める。孤児院で自分が感じた違和感が、エルの言葉によって完全に一つに繋がっていく。
「ようやく、尻尾を掴んだ」
エルの視線は、炎の向こうに広がる、北の闇を静かに射抜いていた。




