第33話:守る者
パァン、と夜の静寂を切り裂いて、窓ガラスが派手に砕け散った。
「――ひっ!?」
小さな悲鳴が、素朴な建物の奥で幾重にも重なって上がる。直後、室内に容赦なく飛び込んできたのは、先端に油布を巻き、赤々と炎を宿した数本の火矢だった。床の古びた絨毯に引火し、一瞬にして黒煙が立ち上る。
「みんな、奥へ! 窓から離れて、床に伏せなさい!」
年長のシスターたちが、恐怖で身をすくませる子供たちを必死に抱き抱え、建物の最奥へと押し込んでいく。外を囲む無数の足音と、カチカチと不気味に響く弩弓の絞り音。それは、守るもののない小さな家をじわじわと圧殺していく、冷酷な死の包囲網だった。
「はァ、はッ、はァ、はッ……!」
その包囲網の真後ろから、一頭の飢えた獣のような足音が突っ込んできたのは、まさにその時だった。
ネアルコは、速度を一切落とさずに過激派の最後尾へと肉薄していた。すでに息は絶え絶え、喉の奥は完全に血の味しかしない。だが、彼の右腕はすでに鋭く、躊躇なく引き抜かれた剣を握り締めていた。
「なっ――、敵襲――」
振り返りかけた男の胸元へ、ネアルコは全力の突進とともに剣を突き立てた。鋭い金属音が夜の闇に響き、男が崩れ落ちる。
「ネアルコ……!? なぜお前がここに!」
周囲の男たちが一斉に色めき立ち、松明の明かりが激しく揺れた。
「……お前か」
ネアルコの声が低く沈む。
包囲網の中央に立っていたのは、反乱軍を率いていた筆頭格の将校だった。
「よお、ネアルコ」
男は冷たく笑う。
「裏切り者の犬に成り下がったとは聞いていたが、本当にここまで来るとはな」
男の目は、かつての気風の良さなど微塵もなく、ぎらぎらとした濁った狂信の光だけを宿していた。
「お前ら、正気か」
ネアルコは一歩、踏み出す。
「王城を狙うならまだ分かる。だが、ここには何がある。ただの孤児院だぞ。あの中にいるのは、親を亡くしたただの子供たちだ。お前たちが護ると誓った、この国の民だろうが!!」
「うるさい!!」
将校が吠えた。その顔が激昂に歪む。
「あの偽聖女が、俺たちの革命を、仲間たちの死をすべて無に帰したんだ! ならばあいつが一番大切にしているものを、その目の前で叩き潰してやるのが一番の復讐だろうが! これは大義のための必要な犠牲だ!」
「子供を殺す大義がどこにある!!」
ネアルコは怒号とともに地を蹴った。向かってくる二人の剣を強引に弾き飛ばし、その肉体に容赦なく刃を刻み込む。密集地での剣の冴えは、集まった過激派を圧倒していた。
だが、倒しても、倒しても、夜の闇から次々と黒い外套の男たちが湧き出してくる。数の暴力が、確実にネアルコの体力を奪っていった。一瞬の隙を突かれ、背後から放たれた矢が左太ももの傷をかすめる。
「終わりだ、ネアルコ。お前も、あの建物の中のガキどももな」
将校が冷たく言い放ち、右手を上げる。十数人の過激派が一斉に孤児院の窓へと弩弓の照準を合わせた。
「おい、やめろ……っ! やめろォ!!」
「放てッ!!」
カチリ、と引き金が引かれ、黒い殺意の束が撃ち出された。
「やめろォォォォォッ!!」
ネアルコが手を伸ばす。だが、届かない。窓の奥で、小さな影たちが恐怖に身を硬くした、その瞬間――。
放たれた十数本の矢は、窓の前へ滑り込んだ白い閃光によって、一瞬で弾き飛ばされた。
吹き抜けた風が、一人の女性のマントを大きく翻す。
頬には白い布。
手には白い剣。
「そこまでよ」
その声だけで、過激派たちの顔色が変わった。
必ず来ると知っていた。
だが、本当に来てほしくはなかった。
――シア・ロードンだった。
「ちっ……! 駐留軍の長官自ら、こんな掃き溜めに這い出てきやがったか!」
将校が顔を引きつらせながら声を張り上げる。
「怯むな! 相手はたった一人だ! 包囲を狭めろ、囲んで殺せぇぇぇッ!」
シアの背後、路地の暗闇から駐留軍の精鋭たちが姿を現し、包囲網を逆に包み込もうと展開を始める。
「ネアルコ、動ける?」
「……ハッ、お前が遅すぎるから、ちょっとここで昼寝してただけだ」
ネアルコは血を吐き出し、無理やり立ち上がる。
「なら、子供たちの防衛線を任せるわ。あの子たちのところへ、一歩も通さないで」
「――了解だ、長官殿」
シアが白い剣の柄を強く握る。
キィン――。
夜気を震わせるような澄んだ共鳴音が響いた。その意味を、シアは知らない。ただ、剣だけは静かに応えていた。
「死ねぇぇッ!」
シアはネアルコを庇うように敵との間へ割って入り、前方へ突進した。体当たりするように一人をなぎ倒し、左右から襲いかかる刃を最小限の動きで受け流す。
シアの圧倒的な膂力と精密な剣技によって、男たちは為す術もなく地面へと叩き伏せられていった。
だが、敵は裏手に回り込もうと松明を掲げ、さらにネアルコへ向けて矢を放つ。
守るべきものが、多すぎる。
だが、シアは迷わない。無駄のない身のこなしで空中の矢を斬り落とし、次の瞬間には孤児院の裏手へ跳んでいた。闇夜を駆ける白い残像。裏手の男たちは体当たりを受け、まとめて吹き飛ばされた。
過激派の男たちが、じりじりと恐怖に足を引きずる。シアがそこに立っているというただそれだけの事実が、彼らの前進を完全に阻む絶対的な壁となっていた。
「なぜだ……! なぜお前ほどの騎士が、国を、俺たちを裏切ったんだ、シア・ロードン!!」
将校が血を吐き出すように叫んだ。
「お前は『ヴァルフォードの至宝』だったはずだ! 王国の民の希望だったはずだろうが! なのに、なぜそんなマントを纏い、帝国の犬どもと一緒になって俺たちを弾圧する! お前が革命を壊したんだ! お前が民から希望を奪ったんだ!!」
かつてなら、その言葉は彼女を迷わせていただろう。
だが、今のシアは揺るがない。
誰に命令されたわけでもない。自分の意志で、今、この命を何のために使うべきか。その答えは、とうに決まっていた。
孤児院の奥から聞こえる子供たちの小さな泣き声。入口に立つネアルコの荒い気配。
守るべき現実が、そこにあった。
シアは静かに、だが揺るぎない重みを持った声で告げた。
「違う」
「何……?」
「私は、誰かに縋られるために剣を振るうんじゃない。――守るために、ここにいるの」
その瞬間、シアの身体が爆発的な踏み込みとともに消えた。
「が、はっ――!?」
将校が反応するよりも早く、白い閃光が彼の視界を真白に染めた。シアの放った一閃は、将校の構えていた剣を根元から木端微塵に叩き折り、その凄まじい衝撃波が胸元を強打した。男の身体が派手に吹き飛び、地面の泥の中へと転がって完全に意識を失う。
「一撃で……っ!」
「ひ、退け! 撤退だッ!!」
指揮官を失った過激派たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、駐留軍によって次々と捕縛されていった。
激しい金属音と怒号に包まれていた孤児院の周辺は、嘘のように静まり返っていた。
「……終わったな」
孤児院の入口で、ネアルコが壁に背を預け、ずるずると地面に座り込んだ。張り詰めていた緊張が切れた途端、太ももの傷から激痛が押し寄せてくる。
「ありがとう、ネアルコ。よくあの子たちを守り抜いてくれたわ」
シアが歩み寄り、自身のマントを引き裂いてネアルコの傷口に手際よく巻き、応急処置を施していく。
「ふん……。お前がもう数分遅れてたら、俺が全員一人で片付けて、長官の座を奪い取ってやるところだったさ」
「そうね。次はもう少し早く来るわ」
孤児院の扉が静かに開いた。
建物の奥から、子供たちが怯えたまま恐る恐る顔を覗かせる。
シアは白い剣を鞘に納め、優しく微笑んだ。
「もう大丈夫」
子供たちの安堵の泣き声だけが、夜明け前の静かな王都へ広がっていった。




