第32話:火種
朝の光が王都に差し込んでも、街を覆う薄暗い霧は晴れなかった。
シアはいつものように粗末な上着を羽織り、復興業務のための巡回へと向かっていた。だが、市場へ一歩足を踏み入れた瞬間、肌を刺すような空気の異変に気づく。
いつもなら活気に満ちているはずの広場が、妙に静かだった。人々は肩を寄せ合い、怯えたような、あるいは何かに憤るような目でひそひそと囁き合っている。
「……聞いたか? 王家は帝国に国を売ったらしいぞ」
「炊き出しも、そのうち帝国兵だけになるってよ」
「孤児院の子どもまで連れていかれるって話だ」
「反乱軍が、今度こそ俺たちのために立ち上がるって噂だ……」
孤児院へ向かう道でも、炊き出しの現場でも、流れているのは全く同じ不気味な流言だった。誰が言い始めたのかは分からない。しかし、それは確実に、人々の不安を煽りながら広がっている。
シアは足を止めた。昨日まで、こんな空気ではなかった。どこへ行っても、誰に聞いても、恐ろしいほどに同じ話ばかりが聞こえてくる。
(……何かが起きている)
胸の奥に生まれた言いようのない違和感を抱えたまま、シアは治安維持部隊の詰所へと足を速めた。
詰所へ向かう途中で、路地裏から怒号と金属音が響いてきた。
駆けつけると、治安維持隊の兵たちが、武器の運搬をしていた不審な集団と乱戦に陥っていた。集団はただの暴徒ではない。統率された動きで、維持隊を圧倒していく。
「長官! 敵の数、および練度が想定を超えています! 治安維持隊だけでは対処しきれません!」
悲鳴のような報告が響く中、シアは迷わず一歩前に出た。
「下がっていて」
シアは倒れている若い兵士を見た。敵に囲まれている。彼を救い出すためには、包囲の最も厚い場所へ飛び込むことになり、極めて危険だった。だが、迷いはなかった。
シアが心の中で決断し、左の泥濘へと踏み込んだ。
身体が、軽い。
世界が、ほんのわずかに遅くなる。
それは行き先を示す力ではない。自ら選んだ一歩を、最後まで支える力だった。
シアは敵の刃を泥ごと巻き込んで弾き飛ばし、倒れていた兵士を自らの背後へと引きずり込んだ。救出はできた。しかし、敵は撤退しなかった。むしろ、シアの参戦によって彼らの目は一瞬で血走る。
「……長官だ!」
「売国奴め! 殺してやるッ!」
包囲が急速に狭まる。維持隊の兵たちは負傷者だらけで、戦えるのはシア一人しかいない。
かつての聖女だった頃のシアなら、プリンスローズの示す最速・最短の「最適解」に従い、敵を効率よく殲滅して一瞬で終わらせていただろう。
だが、今のシアはそれをしない。自分の身を引いて敵を誘い込むよりも先に、怪我をした兵たちの退路を確保するために、自ら前に出て刃を受け止める。
当然、一歩遅れる。鋭い刃がシアの頬をかすめ、血が滲んだ。かつての無傷の戦い方に比べれば、それはあまりにも危うく、泥臭い戦闘だった。それでも、シアは一歩も引かずに前線を支え、負傷兵たちを後ろへ、後ろへと逃がしていく。
その時だった。背後を守るシアの死角から、一人の男が低く飛び込んできた。完全に視界の外。身を翻して受けるには、もう間に合わない――。
しかし。
シアが考えるよりも先に、その右腕が勝手に跳ね上がった。
意思を介さない速度で、白い剣閃が流れる。ガギィン、と激しい金属音が響き、死角から迫っていた刃が強引に弾き飛ばされた。
シアは一瞬、目を見開いた。
(今のは……)
言葉はなかった。
けれど、腰の白銀の刃だけが、静かに震えていた。
行き先はシアが決める。だが、その命が脅かされた瞬間だけは、背後の相棒が牙を剥く。
「……チッ、ここまでか! 撤収だ!」
数人の武器を叩き折られたところで、不審集団のリーダー格が鋭く叫んだ。男たちはシアを深追いすることなく、統率された動きで一斉に路地裏の闇へと霧のように消えていった。
静寂が戻る。シアは荒い息を吐きながら、男たちが去った暗がりを凝視していた。
手応えは確かにあった。だが、何かが決定的に歪んでいる。彼らは最初から、ここで自分を殺し切る気などなかった。まるで、自分をこの場所に釘付けにするためだけに、時間を稼いでいたかのような――。
「あ、ありがとうございました……!」
「怪我は?」
「え? あ、はい、大丈夫です!」
シアは小さく頷いた。
「ならいいわ」
シアはそれだけ言うと、言いようのない胸騒ぎを抱えたまま、静かにその場を歩き去った。
日が落ちかけ、朱色から濃紫へと移り変わる王都の片隅。あの古く小さな教会の薄暗い礼拝堂で、ナスルーラとネアルコは、潜入兵が盗み出してきた手書きの地図を見つめていた。
「ここは……軍施設ではありませんね。――孤児院、ですか?」
ナスルーラが呟いたその名を耳にした瞬間、ネアルコの目がその文字のところで止まり、礼拝堂の空気が明確に凍りついた。
「ネアルコ?」
返事がない。男はただ、無言で地図のその一点を睨み続けていた。
「なぜ、軍の施設でもない場所に印が……? 『帝国を倒す』『国を取り戻す』――そのために動いている彼らが、ここを狙う理由なんてないはず……」
「……殿下」
低い、掠れた声だった。
「追い詰められた人間は、勝つためじゃなく、ただ壊すために動くことがあります。外していれば笑い話です。ですが……」
ネアルコの腰の剣を持つ手には、すでに青筋が浮き上がっている。あそこは、今のシアが何よりも大切にしている、大勢の子供たちがいる場所だ。
ネアルコが身を翻そうとした瞬間、ナスルーラがその前に立ち塞がった。
「お待ちください、ネアルコ。一人で行く気ですか?」
「もしこれが陽動で、過激派の本隊が別の場所で動いていたらどうするんです。王都が混乱に陥れば、殿下の立場だからこそ動かせる人間や、見極めなければならない全体像があるはずです。あなたまで巻き込まれるわけにはいかないんですよ」
ナスルーラは一瞬だけ唇を噛み、毅然とした目を宿してネアルコを見据えた。
「……分かりました。あなたは孤児院へ。私はこの王都の異変の全体を探ります。あの子の大切な場所を……頼みましたよ、ネアルコ」
「……行ってきます」
ネアルコはそれだけ言い残すと、弾かれたように扉を蹴り開けて夜の街へと走り出した。
――夜。王都が、一瞬にして地獄の窯と化した。
ゴォォォ、と夜空を不気味な赤紫に染め上げる火の手が、同時に四方から上がった。放火。暴動。さらには、闇に紛れた武装集団による治安維持隊の詰所や武器庫への同時多発襲撃。昼間撒き散らされていた流言という名の火種が、一気に爆発したのだ。
「長官! 西の第三詰所が炎上! 駐留軍の応援要請が殺到しています!」
「東の武器庫からも爆発音! 暴徒化した民衆が一部暴走しています!」
ひっきりなしに飛び込んでくる絶望的な報告の中、シアは治安維持隊の本部で指揮を執っていた。頬の傷に貼った布が、じんわりと血で汚れている。昼間のあの戦闘は、やはり自分たちをあの場所に釘付けにするための陽動だったのだ。
その時、飛び込んできた一報に、シアの全細胞が凍りついた。
「――報告! 復興区画、孤児院方面にて、正体不明の武装集団が確認されました! かなりの規模です!」
「……っ!」
王城でも、軍の施設でもない。なぜ、あの子たちのいる場所へ。
「本部指揮は副官に一任します。治安維持隊、動かせる者はすべて私に続いて!」
白い剣を掴み、シアは夜の街へと飛び出した。
同じ時刻。ネアルコは夜の街を全力で疾走していた。
「ハッ、ハッ、ハッ……!」
肺が焼けるように熱い。王都の至る所から立ち上る黒煙と火柱。迫り来る暴徒の群れを強引に突き飛ばし、ネアルコはただ真っ直ぐに、孤児院のある北の区画を目指して地を蹴り続けた。
(間に合え……っ!)
あそこだけは、駄目だ。何を失ってもいい。だが、あそこだけは。
ネアルコは夜の街を駆けた。
孤児院。
完全な夜の闇の中、その素朴な建物の周囲を、音もなく複数の影が囲んでいた。
その数は、十や二十ではない。誰もが黒い外套を纏い、手には容赦のない殺意を宿した弩弓を構えている。
包囲網の中央。松明の赤い光に照らされた過激派の幹部が、冷酷な笑みを浮かべて夜空を見上げた。
「来る」
幹部は低く呟いた。
「あの女は、必ずここへ来る」
カチリ。
夜の静寂に、幾つもの弩弓が静かに音を立てた。
窓の奥では、子供たちだけが何も知らず、身を寄せ合っていた。




