第31話:胎動
王都駐留軍本部の総督室。夜明けの薄明かりの中、エルの元に徹夜で集められた報告書が積み上がっていた。
『暴動の兆候、なし』
『各地区の民衆、不穏な停滞。日常への復帰の気配なし』
「誰も、予測ができません。信仰が崩壊したにもかかわらず、暴動にも暴発にも至らない。このような群衆心理のデータは、過去の戦史のどこにも……」
報告する部下は冷や汗を流している。帝国内部も、即時掃討を唱える強硬派と、静観を訴える慎重派で二分していた。
「総督。どうなさいますか」
いつもなら数手先までの最適解を淀みなく提示する天才が、ただ冷たい指先で机の上の書類をなぞっている。
長い沈黙のあと、エルは短く応えた。
「――観察する」
「は……? 殲滅でも懐柔でもなく、ですか」
「そうだ。今の王都は、劇薬の調合が終わったばかりのフラスコだ。衝撃を加えれば、その瞬間に爆発する」
エルは窓の外、白み始めた王都を見つめ、それ以上は何も言わなかった。
その朝。朝靄が立ち込める王都の街頭に、シアの姿があった。最低限の護衛だけを従わせ、彼女は静かに街を進む。自分の声が落ちた世界を、この目で確かめるための歩みだった。
市場を通る。露店の店主、荷を運ぶ男、買い出しの女たちが、一斉にシアに視線を向けた。
だが、もう誰も膝を折らない。「聖女様」と叫ぶ者もいない。
怯えた目。疑う目。怒った目。そして、どう接していいか分からない深い困惑の目。生々しい人間の視線の暴風雨の中を、シアは逃げずに歩く。
ふと、足を止めた。目の前にあったのは、あのパン屋の仮設小屋だった。
店の前で台を拭いていたパン屋のおじさんが顔を上げ、シアと視線がぶつかる。
長い沈黙が流れる。周囲の民衆が息を呑む。おじさんはシアの軍服を見つめ、それから彼女の手の甲に残る、瓦礫で切った無数の傷跡に視線を落とした。
おじさんはいつも通りの不愛想な声で言った。
「パン、焼けたぞ」
「……そう」
シアは小さく頷いた。おじさんは視線を戻し、焼き立ての黒パンを棚に並べ直した。
シアは再び歩き始める。
それぞれの暗闇の中で、全員が縋るべき偶像のない答えを探し続けている。
冷たい冬の空は高かった。
それでも、彼女は前を向いていた。
その夜。王都駐留軍本部の総督室。
エルは窓の外からゆっくりと視線を戻し、机の上に並べられたいくつかの「物」に目を落とした。
数冊の報告書。そして、先ほどの検問で押収されたばかりの、泥に汚れた一丁の弩弓。
エルは冷たい指先で、その弩弓の照準器の裏側をなぞった。塗装が剥げたその下に、極めて小さな、しかし見慣れた刻印が隠されている。
「……これはどこで手に入れた」
「は……。王都周辺の、反乱軍の残党とおぼしき男たちが所持していたものです」
「帝国正規軍のものだ」
部下の顔から、一瞬で血の気が引いた。
エルは弩弓から手を離すと、机の上に散らばっていた報告書を、淡々と並べ替えた。
東門での武器押収。
中央街区で拘束された不審者。
西倉庫街の物資盗難。
一見、何の繋がりもない。
だが、捕らえられた者たちの足取りだけは、不気味なほど一致していた。
――全員が、北街道を経由して王都へ入っていた。
「……北だな」
エルが短く呟く。
「……はい? 何がでございますか」
「全ての点が、北へ繋がる」
エルはそっと目を閉じた。
机上の点は、静かに一本の線へ変わり始めていた。
「調べろ」
「はっ」
部下が深く一礼し、静かに退室していく。重い扉が閉まり、再び一人になったエルは、机の上の弩弓へ視線を落とした。ランプの灯りの下、鈍く冷たいその刻印だけが、静かに光を反射していた。
同じ頃、深夜の静寂の中でペンを動かしている者がいた。シアだった。
山積みにされた復興計画書、孤児院への物資配給の許可証、冬を越すための炊き出しの予算案。彼女は淡々と、確実に書類に署名を重ねていく。
かつてのように、何万人もの前に立って神々しい演説をするためではない。天を仰いで奇跡を祈るためでもない。昨日まで一緒に瓦礫を拾い、今朝不愛想にパンを焼いてくれた、あの生々しい生活者たちの日常を回すための泥臭い実務。
奇跡ではなく。
剣でもなく。
ただ、誰かの明日を繋ぐための仕事だった。
そこへ、夜間の治安維持にあたっていた部隊からの報告が届く。王都周辺で民の不安を煽る流言が増加しているという。
報告書を前に、シアの指先がわずかに止まる。気にはなったが、現状ではあまりにも情報が少なすぎる。ここで自分が不用意に動けば、かえって民を動揺させ、不要な不安を広げるだけだ。彼女は小さく息を吐き、再び目の前の書類へと視線を戻した。
深夜。王都は息を潜めていた。それぞれの時間が、それぞれの持ち場で流れていた。
過激派と決裂し、地下聖堂を去ったナスルーラは、王都の片隅にあるあの小さな教会に戻っていた。開け放たれた窓から、どこまでも深い夜の闇を見つめる。そのすぐ外の影で、ネアルコは無言のまま、月明かりの中で自身の剣を静かに手入れしていた。
王都の駐留軍本部。エルは一人、ランプの灯りの下で、未だ答えを出さぬ報告書を凝視していた。
そしてシアは、実務を終えた机の前で、引き出しの奥に仕舞ったあの小さな紙片に、そっと視線を落としていた。
同じ時。
地下聖堂のさらに深い奥底。
誰も立ち入らない倉庫へ、いくつもの木箱が静かに運び込まれていく。
荷運びをする男たちは無言だった。
箱には何の刻印もない。
誰も尋ねない。
誰も答えない。
地下の闇へ、木箱だけが静かに積み上げられていった。




