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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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第30話:分岐点

王都の夜は、かつてない不気味な沈黙と、細切れのざわめきに満たされていた。二万の群衆は、城門前から散り散りになりながらも、誰一人としてこの街から立ち去ろうとはしなかった。

酒場の片隅。冷え切った路地裏。どこを覗いても、聞こえてくるのは同じ「一つの声」への困惑だった。

「あれは聖女じゃなかった。ただの、震えているだけのガキだ」

「いや、だからこそ本物だ。神の代弁者ぶる偽物どもとは違う」

「騙されていたんだ。奇跡なんて最初からなかったんだよ!」

「じゃあ、俺たちは何を信じればいい? これまで何のために血を流してきたんだ!?」

誰も答えを持たず、誰もまとまれない。

崩れ落ちた教会跡の瓦礫の隙間に腰掛けた一人の老婆がいた。長年そうしてきたように、自然と胸の前で古びたロザリオを握りしめ、目を閉じる。けれど、いつもの祈りの言葉が、どうしても口から出てこなかった。唇を小さく震わせたまま、老婆はただ、行き場を失った手をきつく握り直すことしかできなかった。

誰も答えを持たない。

だから、二万の人間が、初めて自分たちの頭で考えていた。


王都の片隅。暴動によって打ち壊されたパン屋の、その瓦礫の横に建てられた仮設小屋。

夜。小さなランプの灯りが、煤けた室内を静かに照らしていた。

客の姿はほとんどなく、昼間の城門前の騒ぎを引きずった近所の連中が数人集まって、燻るような声で話し合っていた。

「……なあ。俺は、あの長官の娘には失望したよ」

ひとりの男が、吐き捨てるように言った。

「いや、あれが本当の姿だろ。俺たちと同じ人間だってことだ」

「同じ人間? ふざけるな。なら、結局あの娘は、俺たちのために何もしてくれないってことじゃないか」

小麦粉で汚れたエプロンをつけたまま、静かに道具を拭いていたパン屋のおじさんが、ぽつりと言った。

「当たり前だろ」

その低く通った声に、連中が振り返る。

「あいつは最初から、何も約束してねぇ」

小屋の中に、一瞬の沈黙が降りた。

「勝手だって、聖女にしたのはお前らだろ」

誰も反論できなかった。おじさんは手を休めず、暗い窓の外を見つめながら、言葉を重ねる。

「こんなことになったのも、帝国が来たからだ。……俺の女房がこんな目に遭ったのもな」

集まった連中は、痛々しく頷いた。

「でもな」

おじさんは道具を置き、振り返って連中を真っ向から見据えた。

「――あの地獄のあと、この瓦礫を一緒に片付けてたのは、あいつだったぞ」

男たちが、息を呑む。

「毎日、毎日来てたぞ。長官でもなくなったのによ。手ぇ血だらけにして、泥に塗れて、俺たちの横でずっと瓦礫を運んでた」

「だから、俺は知らん。あいつが聖女かどうかなんてな。……ただ」

おじさんは少しだけ視線を落とし、不器用な手つきで顎を擦った。

「悪い奴じゃねぇよ」

沈黙。誰も返事をしない。

その時、奥の寝床から、大怪我を負って横たわっていた妻の、掠れた声が響いた。

「……そうね」

小さい、けれど確かな声だった。

「毎日、毎日、来てたもの」

小屋のなかに、今度こそ完全な沈黙が満ちていった。二万人が繰り広げるどんな理屈も、その二人の言葉の前には、あまりにも軽すぎた。


城の勝手口へと繋がる、闇の深い裏通路。深くフードを被った旅装のナスルーラが、音もなく外へと踏み出した。

影の中から、一人の男が歩み出る。ネアルコだった。その後ろには、息を潜めた数名の反乱軍の騎士たちが控えている。

ネアルコはナスルーラを見つめ、短く問いかけた。

「行くのですか」

王女は小さく頷いた。

「シアは」

短い問いに、ナスルーラは少しだけ足を止めた。そして、振り返らぬまま静かに告げた。

「今は、私がいてはいけません」

夜風が吹き抜け、フードの裾が白く揺れる。

「また誰かが答えになる。それでは、今日と同じです」

ネアルコは何も言わなかった。

「だから」

ナスルーラは小さく息を吐き、再び歩みを進める。

「今夜は、あの子の夜です」

それ以上の言葉はなかった。ネアルコが身を翻して先に歩き、王女がその半歩後ろを追う。正統なる王家の血と、それを担う革命家たちは、再び夜の街の闇へと溶けて消えた。


静まり返った城の中。昼間の疲労と、途方もない静寂のなかに、シアは一人でいた。

開け放たれた窓から吹き込む夜風だけが、主を失った部屋に冷たく残っている。

扉が静かに開き、エルが歩み寄ってきた。彼は手元の資料を見ることもなく、ただ暗闇を見つめるように言った。

「……暴動は起きていない」

シアはエルの顔を見上げた。

「……そう」

「誰も、自らの生活に帰ってもいない」

沈黙。窓の外には、暗闇のなかに点々と揺れる、無数の小さな灯り。

エルが自嘲気味に、低く呟いた。

「失敗した」

シアが彼を見る。

「聖女を否定すれば、すべてが終わると思っていた」

エルはただ、冷たい視線を夜の闇へと戻す。

「終わらなかった」

「……静かだな」

エルがそう呟いた。シアは何も答えなかった。腰のプリンスローズの柄に触れる。白銀の剣は、何も語らない。

それでも、シアは目を逸らさなかった。


同じ夜――

反乱軍の潜伏先である地下聖堂の会議室は、かつてない険悪な熱気に満ちていた。深夜、王都から帰還したナスルーラとネアルコを迎えたのは、歓喜の声ではなく、机を激しく叩く幹部たちの苛立ちだった。

「なぜ、あの好機に王都を攻撃しなかった!」

「帝国軍の指揮系統は完全に混乱していた。あの瞬間こそ、我らが立ち上がる唯一無二の機だったはずだ!」

過激派の将校たちが身を乗り出し、即時蜂起の正当性を捲し立てる。

「今動けば、我々は帝国ではなく、民衆と戦うことになる」

ネアルコが低く言い放った。

「何を弱気なことを! 民は帝国の嘘に気づき、拠り所を失っているのだぞ!」

「縋らせるのか」

ネアルコの声が、過激派の言葉を遮った。

「それは革命ではない。主をすげ替えるだけの奴隷の連鎖だ。今の彼らは、もはや我々の手駒には戻らない」

議論は平行線をたどり、一触即発の限界を迎える。その時、最奥に座っていたナスルーラがゆっくりと立ち上がった。

「民は、もう誰のものでもありません」

ナスルーラは、静かに、しかし断固として告げた。

「あの子が命を削って、彼らを偶像の呪縛から解き放ったのです。それを再び我が王家の求心力として利用しようというのなら……私は、貴方たちの旗印になるつもりはありません」

幹部たちの顔が驚愕と怒りに歪む。その沈黙の中に、取り返しのつかない亀裂の音が響いた。


反乱軍の筆頭格である将校は、わざとらしく深く一礼した。その背中には、隠しきれない冷笑があった。

「そこまで仰るなら、もはや引き止めはしません」

静かな声だった。だが、その場にいた誰もが、それが服従ではなく明確な決別であることを理解していた。

「我々は我らのやり方で、帝国を――そして、この国に巣食う全ての裏切りを駆逐するまでです」

重苦しい沈黙が、会議室を包み込む。誰も口を開こうとはしなかった。幹部たちの目には驚愕と怒りが入り混じっていたが、それ以上に、もう引き返せないという暗い決意が宿っていた。

「……行きましょう」

ナスルーラが踵を返しても、誰も引き止めようとはしなかった。その拒絶の静寂が、何よりも恐ろしかった。

地下聖堂の回廊は暗く、灯火の光さえも妙に冷たく感じられた。通り過ぎる兵たちは、ナスルーラとネアルコの姿を認めると、次々と足を止めてこちらを見つめてきた。だが、そこにこれまでのような敬礼はなく、かといって露骨な敵意があるわけでもなかった。ただ、何も言わずに、黙って二人の歩みを目で追っているだけだった。

暗がりのなか、ネアルコが周囲の視線を遮るようにしながら、低く声を潜めた。

「殿下、お気づきですか」

「ええ」

ナスルーラは前を向いたまま、小さく応えた。

「もう、私たちを見ていないのね」

ネアルコはやり切れなさを噛み殺すように、小さく顎を擦った。

「……復讐しか見えなくなっちまったんでしょうよ」

二人の足音だけが、冷え切った地下の闇に吸い込まれていく。誰も追ってこなかった。

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