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魔剣  作者: 戸佐秋彦
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第29話:声

控えの間の、冷たい姿見の前。

シアは、震える指先で革の剣帯を引き締め、金具を留めた。カチリ、と小さな金属音が静まり返った部屋に響く。

あの日、ヴァルフォードの地獄で彼女の身体の一部だったはずのそれは、驚くほど他人のもののように冷たかった。息を吸うたびに、胸の奥がまだ痛む。視界の端に映る自身の顔は、先ほどまでナスルーラの胸で子供のように泣きじゃくっていたせいで、瞼が痛々しいほどに赤く腫れ上がったままだ。

格好良い親衛隊長でも、神々しい聖女でもない。ただのボロボロの17歳が、そこに立っている。

「……シア」

背後から、ナスルーラがそっと声をかけた。その手には、先ほどシアの部屋から持ち出したあの白銀の剣――プリンスローズが握られている。裏路地の骨董品屋。埃を被った剣。初めて手に取った日の光景が、一瞬だけ脳裏をよぎった。

シアは、ごくりと唾を飲み込んだ。かつてその柄を握るたび、彼女の脳裏には、自分が思った瞬間にあらゆる『過程』を吹き飛ばし、強制的に最適解だけを見せてくる、異様な圧迫感があった。

ゆっくりと手を伸ばし、その柄に指をかける。

(怖い……)

心臓が早鐘を打つ。もう二度と、自分で選ぶことを手放したくなかった。それでも、シアは指を強く握り込み、ナスルーラの手からプリンスローズを受け取った。

「……あ」

シアの口から、微かな声が漏れた。

軽い。

驚くほど、軽かった。彼女の心が折れたあの時から、ずっしりと鉛のように感じた、あの異様な質量が、どこにもない。ただの一振りの剣として、今のシアの手にしっくりと馴染んでいた。

シアは戸惑うように、自分の掌と、白銀の剣身を見つめた。

部屋の隅、腕を組んで壁に背を預けていたエルが、その一連の挙動を凝視していた。その深い双眸が、わずかに見開かれる。

(――取り戻している)

今のシアは、剣に振り回される人形ではない。絶望に引きこもる敗北者でもない。迷いも、恐怖も、自分の心という『過程』をその手に取り戻した、ただの人間としての輪郭が、そこにある。

「準備はいいか」

エルは感情を押し殺した声で言った。窓の外からは、我が世の春を謳歌するように、二万の狂信徒たちの地鳴りのような歌声が響いてきている。

シアはゆっくりと、しかし確実に、プリンスローズを腰の鞘へと滑り込ませた。

「……ああ」

その声はまだ小さく、微かに震えていた。けれど、もう、誰の言葉でもない。彼女自身の声だった。


重い城門が、内側からゆっくりと押し開かれていく。軋む鉄の音が、二万の地鳴りを割るように響いた。

その瞬間、熱狂の渦がピタリと止まる。

「聖女様だ」

「聖女様がお姿を現されたぞ!」

前列の誰かが叫んだ声を皮切りに、波紋のように歓声が爆発した。大地が震えるほどの音圧が、城門から踏み出したシアの身体を打ち据える。

狂信徒たちの目は、一様に濁り、異様な熱を孕んで輝いていた。誰もが、彼女という「救いの神」を凝視している。地を這い、手を伸ばし、ただ盲目的に彼女の「奇跡」を、自分たちを地獄から引き上げてくれる言葉を求めていた。

「聖女様! 我らを見捨てないでください!」

「どうか、我らを導く言葉を! 奇跡を!」

その叫びを、二万の視線を正面から受け止めながら、シアはゆっくりと口を開いた。腰のプリンスローズは、ただの重みとしてそこにある。

「……できない」

シアの、掠れた声が響いた。あまりの小ささに、前列の数人にしか届かないような声だった。民衆は互いに顔を合わせ、不気味に静まり返る。次の言葉を、高尚な神託を待つように。

シアは深く息を吸い、今度ははっきりと、二万の熱狂の海へ向けて己の声を響かせた。

「私は、あなたたちを救えない」

「な……っ」

民衆の間に、冷たい、凍りつくような動揺が走る。

「そんな、なぜですか聖女様! あなたなら、あの白銀の剣の奇跡があるなら――」

「奇跡なんて、ない」

シアは、彼らの熱狂の顔を一人ひとり見つめながら、静かに、けれど明確に言葉を重ねた。

「奇跡があるなら……私が一番見たい。私だって、誰かに救われたかった」

「救われ……? 聖女様が、何を……」

民衆のざわめきが、戸惑いと恐怖の色を帯びて広がっていく。完璧な偶像の表面に、パキ、と微かな亀裂が入る。

シアは一歩、前へ踏み出した。その足は、まだ微かに震えている。

「怖い」

二万人の声が、今度こそ完全に静まり返った。

「……怖い。今、こうして私の名前を叫んでいる、あなたたちが怖い」

もっと激しく、津波のようなざわめきが群衆を覆う。

「みんな私を見てる。でも、誰も私を見てない」

群衆は、水を打ったように静まり返っていた。誰も、次の言葉を返せなかった。


届かない。


それでも、熱狂はもう一つの歌ではなかった。

「これは試練だ! 我らの信仰が試されているのだ!」

前列の男が絶望に顔を血に染めて叫ぶ。だが、その隣の男が力なく首を振った。

「……いや、違う。あれは本当に、ただの少女だ。見てみろ、泣き腫らした目をして、震えているじゃないか」

「なら……なら俺たちは、今まで何を信じていたんだ!?」

ひとつの巨大な怪物だった二万の熱狂は、自らを切り刻むようにして崩走を始めた。縋る者、絶望に立ち尽くす者、怒りに石を握りしめる者。これまでシアひとりに向けられていた熱狂という名の刃が、今、民衆の内部で互いに向き合い、激突し始めていた。

城門の厚い壁の影、微かな喧騒の隙間で、反乱軍の兵の一人が息を潜めて声を掛けた。

「隊長、今です。奴ら混乱してます」

「待て」

ネアルコは低く呟いた。ただ城壁の影から群衆を見つめている。

群衆は、自ら崩れ始めていた。

城門の傍ら、腕を組んだままのエルは、眼前の光景にかつてない不快な戦慄を覚えていた。

人々は帰らない。誰も帰れない。

(……民衆の側だ)

人々は、聖女を信じていたのではない。聖女という形をした「都合のいい救済」を求めていただけだ。エルは初めて、盤面にない現象を見ていた。

そのエルのすぐ半歩後ろ。深くフードを被った旅装のナスルーラが佇んでいた。助けない。庇わない。代弁もしない。

ただ、静かにシアを見守っていた。

シアはゆっくりと、眼前に広がる二万の群衆を見つめていた。

誰も帰らない。絶対的な救済を失い、それでも立ち去れない人々。

でも、もう、誰も歌っていない。誰も、祈っていない。誰も、答えを持っていない。

二万の人間が、初めて、自分の頭で考え始めていた。その不気味なほどの、戸惑いに満ちた静寂。

シアはほんの少しだけ、視線を横へ向けた。

城門の陰。深くフードを被った旅装の人物。顔は見えない。何も言わない。ただ、そこにいた。それだけで十分だった。

届かなかった。けれど、世界は確実に変わった。

ギチ、と革の擦れる微かな音が、彼女の右手から鳴った。シアは右手を動かし、腰のプリンスローズの柄を、強く、深く握り締めた。

重くない。驚くほど、軽かった。

何の奇跡も起こさない、ただの一振りの鉄の剣。

それでも、シアはもう目を逸らさない。自分の意志で、自分の足でこの残酷な現実を踏み締め、ここから始まる新しい地獄に、一人の人間として向き合うために。

シアは、白銀の柄を、強く握り直した。

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