第28話:ひとつの答え
「半刻だ」
執務室の並びにある控えの間の扉を開け、エルが冷徹な声を響かせた。その双眸には徹夜の疲労が濃く滲んでいたが、帝国軍の司令官としての理性が、辛うじて彼の輪郭を保っている。
「城門を包囲している狂信徒の数は、ついに二万を超えた。我が軍の兵士が盾列を組んで境界線を維持しているが、それも長くは持たない。近隣の礼拝堂からさらに民が流入している。……これ以上シア・ロードンをここに留め置けば、暴動の矛先は城内のすべてに向く」
それは脅迫ではなく、数式のような事実の提示だった。
世界はもう、聖女の不在を許さない。
エルにも、その熱狂を止める術は残っていなかった。
ナスルーラは、未だ扉に背を預けたまま、その言葉を静かに聞いていた。一枚の木板の向こう側。すぐそこにいるシアにも、エルの告げた地獄の羽音は確実に聞こえているはずだった。
「……ねえ、シア」
ナスルーラは、後ろを振り向かずに声をかけた。
「世界はね、とってもめちゃくちゃ。お父様が命をかけて守ろうとした民たちは、みんなあなたの名前を叫んでる」
少し息を吸う。
「……きっと、怖いんだと思う。怖いから、あなたの名前を呼ぶしかなくなってる」
ナスルーラは、膝を抱え、自身の旅外套に顔を埋めた。
「……逃げたいね。全部捨てて、誰も私たちを知らない遠いところへ、行っちゃえたらいいのにね」
綺麗事の励ましなど言わなかった。ただ、同じ泥の中に座り込むように、ナスルーラもまた、己の弱さをさらけ出した。
長い、長い沈黙が部屋を巡る。エルもネアルコも、ただ張り詰めた表情のまま、その光景を凝視していた。猶予のない時間だけが、冷酷に部屋の空気を削り取っていく。
その重苦しい静寂の底で。
「……逃げたい……」
ぽつり、と。地を這うような、掠れた声が扉の向こうから漏れた。
ヴァルフォードの親衛隊長としての言葉ではなかった。民を導く聖女の言葉でもなかった。ただ、世界の重圧に押し潰され、すべてから投げ出されたいと願う、一人の少女の本音だった。
「逃げたい……。あの日からずっと、ずっと逃げたかった。……私の声なんて、誰も聞いてない……!」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。
「誰も、私を見てくれない! みんな、私じゃなくて『聖女』を見てる! 王の遺言だからって、自分に言い聞かせてきた。……でも、もう限界なんだ……!」
木の一枚板に、ゴン、と額を打ち付けるような音が響く。シアの、血を吐くような慟哭だった。
「私は、あの日死ぬべきだった。今でも、そう思う……」
静寂だけが残った。
ナスルーラは、何も言わず――ただ扉に背中を押し当てていた。言葉を返すことさえ拒み、ただ、シアの絶望の重みを背中で受け止めるように、じっと静寂を保ち続ける。
「……でも」
長い沈黙。
「逃げても……終わらないんだよね……」
それ以上の理由は言葉にならなかった。ただ、目の前にある残酷な現実だけが、冷たい質量を持ってそこにあった。
ガタ、と。
部屋の内側で、何かが立ち上がる音がした。
――ギィ。
重い音を立てて、木の一枚板が、ゆっくり開いた。
ナスルーラが、立ち上がり、振り返った。
そこに、立っていた。
白銀の甲冑はどこにもない。手垢に汚れた簡素な寝着のまま、髪は乱れ、目は赤く腫れ上がっている。かつての凛々しい親衛隊長の面影も、神々しい聖女の光彩も、そこには微塵もなかった。
ボロボロで、今にも崩れ落ちそうな、ただの十七歳の少女がそこにいた。
ナスルーラと、目が合う。
「……シア」
ナスルーラが、その名前を呼んだ。
「ひめ……」
シアの唇が震える。
「……ひどい」
大粒の涙がこぼれた。
「なんで今さら来るんですか……! なんで……生きてるんですか……!」
涙と一緒に、恨み言ばかりが溢れてくる。
「私……っ、私は……!」
シアはもう、立っていられなかった。膝の力が完全に抜け、その場に崩れ落ちる。
「姫様ぁ……! う、あ、ぁ……っ!」
顔をくしゃくしゃにして、シアは声を上げて泣き崩れた。
ナスルーラは、何も言わずに床に膝をつき、崩れ落ちたシアの身体を、自身の旅外套ごと、きつく、きつく抱き締めた。シアの涙がナスルーラの肩を汚していく。
「ごめんね」
ナスルーラの声が、激しく震えた。王女としての仮面が完全に剥がれ落ち、彼女の瞳からも涙が溢れ出す。
「ごめんね、シア……! 私、迎えに行けなかった……。迎えに来るのが、遅すぎた……っ」
二人は互いにしがみつき、子供のように泣き続けた。
エルは、静かに視線を逸らした。ネアルコは、痛々しいほど強く拳を握り締めていた。部屋の中には、少女たちの泣き声だけが響いていた。
どれほどの時間が経っただろうか。ひたすらに泣きじゃくり、やがて呼吸の乱れだけが残るまで、本当に長い時間が流れた。
外からは、今も二万の民が祈っている。その声は消えない。シアが泣いている間も、ナスルーラが抱き締めてくれている今も。世界だけは、止まってくれなかった。
シアはゆっくりと顔を上げた。赤く腫れた目のまま、窓の外を見る。
身体は、まだ震えていた。
怖かった。
それでも。
「……行かなきゃ」
それは、聖女の決意表明などではなかった。本当は行きたくなくて、怖くて、どうしようもない弱さを抱えたまま、けれど、ただの「シア」として現実を踏み締めた、掠れた呟きだった。




