第27話:帰って
「……帰って」
重厚な木目の扉を隔てて響いたその声は、泣きそうで、怒っているようで、どうしようもなく脆い、ただの少女のものだった。
ナスルーラは、その拒絶の言葉を突きつけられても、扉の前から一歩も動かなかった。彼女はゆっくりと膝を折り、重い木の一枚板に背中を預けるようにして、その場に直接座り込んだ。
冷たい床の感触が、旅外套を通じて伝わってくる。
窓の外では、数万の祈りが今も絶え間なく響いている。
だが、この手狭な執務室の前だけは、奇妙なほど時間が止まっていた。
エルも、ネアルコも、ナスルーラのその姿をただ黙って見つめていた。誰も、扉の向こうの少女を説得しようとはしなかった。今、彼らにできることは、ただシアが自ら言葉を紡ぐのを待つことだけだった。
「……帰って」
しばらくの後、再び扉の向こうから同じ言葉が漏れた。先ほどよりも、頑なで、どこか焦れたような響きを伴って。
ナスルーラは、扉に背を預けたまま、小さく首を振った。
「うん」
「……」
「でも、帰らない」
「……」
「勝手だって分かってる。でも、帰らないの」
ナスルーラは正論を言わなかった。王女としての義務も、これからの策も、何一つとして口にしなかった。ただ、子供のように意固地に、そこにいることだけを主張した。
「……何で、生きてるの」
シアの声は、かすれていた。
「何で、誰も死ななかったの。……何で、生き残ったのが私なの」
あの日、ヴァルフォードが落ちた日。
自分の物語は終わっているはずだった。なのに目覚めたのは、帝国のベッドの上だった。
『生きろ。生きて、この国の民を守れ』
老王の遺言だけが、自分を繋ぎ止めていた。
なのに。守りたかった民は、自分を「聖女」に変えてしまった。
なぜ、自分だけが生き残ってしまったのか。なぜ、生き残らされてしまったのか。シアという人間の輪郭が、世界の重圧によって内側から押し潰されようとしていた。
扉一枚。戦場なら、一瞬で踏み込める距離だった。だが今だけは、その一歩が最も残酷だった。ネアルコは拳を固く握りしめるしかなかった。
エルは静かに目を伏せた。法でも、権力でも、論理でも、人は救えない瞬間がある。彼は初めて、自らの最適解の敗北を認めていた。
「……どうして」
ぽつりと、シアが問うた。その声に、かつての親衛隊長の威厳など微塵もなかった。ただ世界に裏切られ、何も信じられなくなった子供の、拒絶に満ちた呟きだった。
ナスルーラは答えなかった。今さら、どんな綺麗な言葉も口にできなかった。
だから、誰も答えない。答えなど、この部屋には最初から用意されていない。
ただ、長い、長い沈黙だけが流れていく。
衣擦れの音。震える息遣い。シアは、扉の向こうにいた。
「……帰って」
三度目、シアの声が響いた。それはもう、叫びですらなかった。これ以上自分を壊さないでくれという、祈りのような拒絶。けれどその声は、先ほどよりも確実に、扉のすぐ近くから聞こえた。
再び、沈黙が訪れた。
本当に長い、気の遠くなるような時間だった。
やがて、扉の向こうから小さな音がした。何かが床を擦る音。
そして、木の一枚板の向こう側に、すとん、と誰かが座り込む重みが伝わってきた。
ナスルーラはそっと目を閉じた。
扉は開かない。
何も解決していない。
それでも。
シアはもう、部屋の奥にはいなかった。
木の一枚板の向こう。
すぐそこにいた。




