第26話:シア
王都ヴァレイドの王城、その一角にある執務室。
(……計算は、正しいはずだった)
エル・シャーリーは机上の王都地図を見つめたまま動かなかった。
包囲網は完成していた。民衆から隔離すれば、シアという統治不能要因は無力化するはずだった。なのに、外を取り囲む民衆は彼女を「迫害される聖女」と呼び始めた。狂信の熱量は予測の倍以上の速度で膨れ上がっている。
何が、この神格化の引き金になった。
エルは赤インクが入り乱れる地図の上で、思考の糸を過去へと手繰り寄せ――自由を奪われた計算機のように、ある一点で凍りついた。
原因は、この包囲網ではない。もっと前だ。あの、城門の前。あの日。あの瞬間。
自分は法を執行しなかった。執行できなかった。
ネアルコも止まった。兵も止まった。民衆も見ていた。
あの少女だけが例外になった。最初に彼女を例外として扱ったのは、民衆ではない。自分だった。
そこで、エルの思考は完全に停止した。
同じ夜、王都の郊外にある古びた教会。
ナスルーラは、色褪せたステンドグラスの窓から、暗闇に沈む王都を見つめていた。遠くから、無数の松明の灯りが揺れているのが見える。風に乗って聞こえてくるのは、不気味なほどに揃った民衆の祈りの声。シアを「聖女」と呼び、奇跡を求める、狂信の地鳴り。
「……行かれるのですか」
背後の闇から、ネアルコが低く声をかけた。
「行きます」
ナスルーラは振り返らずに答えた。
「殺されるかもしれないのですよ」
「かもしれません」
ネアルコは激しく歯噛みし、一歩、足音を荒く踏み出した。
「分かっておられない。今の王都はおかしい。連中はシアを見ていない。聖女を見ている。希望を見ている。自分が救われる物語を見ているんだ」
沈黙が、重く教会を支配した。
「私も」
ナスルーラが、小さく呟いた。ネアルコが、怪訝そうに目を上げる。
「何と言われました」
「私も、見ていませんでした」
ナスルーラはゆっくりと振り返り、自らの胸元を静かに握りしめた。
「私も、あの子に頼っていました。あの子がいると安心していました。あの子なら大丈夫だと思っていました。……だから」
ネアルコは、言葉を失ったように沈黙した。
「だから、行くんです。今さらだって、自分勝手だって分かってます。それでも、行かなきゃいけないんです」
しばらくの間、ただ窓の外の不気味な祈りの声だけが二人の間に流れていた。やがて、ネアルコは深く、深く溜息をついた。
「……馬鹿なことを」
「はい」
「どうしようもなく、無茶だ」
「はい」
ネアルコの口元に、自嘲気味な、だがどこか微かな苦笑が浮かんだ。
「……なら、お供します。あなた一人では、あそこへ着く前に死にます」
数分後、王城の執務室。
「……閣下」
副官が、信じられないものを見たという顔で滑り込んできた。
「封鎖線に、不審者です。単騎……ネアルコが休戦印を掲げ、城門前で閣下への直接の面会を要求しています。……同行者がもう一人」
エルの計算家としての本能が、わずかに揺れた。
「……城門を通せ。私の執務室へ直接案内しろ」
重厚な扉が開き、泥にまみれたネアルコと、地味な外套を羽織ったナスルーラが入ってくる。ネアルコの顔には、剥き出しの焦りと、世界への強烈な苛立ちだけが張り付いていた。
「いい加減にしろよ、エル・シャーリー」
ネアルコは吐き捨てた。
「お前の完璧な包囲網のおかげで、街の連中は完全に狂ったぞ。何が聖女だ。何が希望だ。誰もあいつの話なんか聞いてねぇ。同胞も、お前ら帝国も、どいつもこいつも勝手な意味ばかり押し付けやがる。あいつは便利なお飾りじゃねぇ。あいつは、旗じゃねぇんだよ……!」
ネアルコはエルの目を、射殺さんばかりに睨みつけた。
「おい、エル・シャーリー。最初にあいつを『特別』にしたのは、お前だろ。城門前で、お前はあいつを斬れなかった。俺も止まった。俺たちが突っ立って特別扱いしちまったから、民衆はあいつを『聖女』だと勘違いしたんだ。……俺たちが始めたんだよ、この地獄は」
エルは、反論できなかった。法は公平であるべきだった。だがあの日、自分はシアだけを見ていた。二人の男は、己が撒いた傲慢な種の重さに、ただ叩きのめされていた。
「……もう、おやめください」
ナスルーラは怯むことなく、エルの冷徹な視線を見つめ返した。
「シャーリー卿。ここであなたに万が一のことがあったら、この街は今度こそ取り返しのつかない焦土と化します。それは分かっています」
エルは、その静かな瞳の前に居住まいを正した。
「王女殿下。何か解決策でもあるのですか」
「いいえ。私には、何もありません」
ナスルーラは静かに言った。
「知識も、作戦も、ありません。ただ……あの子を一人にしておけないだけです。理由なんて、ありません。放っておけないんです」
エルは目を閉じた。ゆっくりと息を吐く。
「……ご案内いたします。時間は半刻です」
それは、自らの判断の誤りを認める言葉だった。
案内されたのは、シアがかつて「親衛隊長」だった時代から使い続けている、手狭で頑牢な執務室だった。
今、シアはその部屋の奥に完全に閉じこもっていた。すべての言葉を遮断し、重い扉はぴたりと閉ざされたままだ。窓の外からは、城を取り囲む数万の民衆が捧げる、地鳴りのような祈りの声が響いてくる。
エルとネアルコは、一歩手前で足を止め、ナスルーラの背中を見つめた。
ナスルーラは、一人で重厚な木目の扉の前に立った。その扉にそっと両手を触れる。
「――シア」
反応は、ない。
ナスルーラは、もう一度、扉に額を押し当てるようにして、声を絞り出した。
「シア」
沈黙。
「シア……!」
三度目の呼びかけにも、扉の向こうからは何の音も返ってこなかった。
ナスルーラは、ゆっくりと頭を垂れた。肩が微かに震え、木目の扉へとぽつりと涙が滲む。
「……ごめん」
その口から漏れたのは、呼び戻す言葉でも、励ましでもなかった。
「助けに来たとか、迎えに来たとか、そんなこと言えない。私、あなたが生きているって聞いた時、嬉しかった。本当に、安心したの。だから……その先を見ようとしなかった。あなたがどんな気持ちで生きてきたのか、何を失ったのか、考えようとしなかった。あなたなら大丈夫だって、勝手に思い込んで、甘えてた。……本当に、ごめん」
長い、沈黙。
扉一枚を隔てた向こうで、小さく息を呑む音がした。
「……帰って」
扉の向こう。震える声。泣きそうな声。怒っているような声。
その声は、聖女のものではなかった。
シアの声だった。




