第3話 闇夜の輝き
そして、その日の夕暮れ。
その不吉な予兆は、最悪の形で現実となった。
近隣の農村から、王都の騎士団へと悲鳴のような急報が届いた。 収穫期を迎えた作物を狙い、武装した野盗の集団が出没しているという。
すでにいくつかの集落が襲われ、容赦のない略奪を受けていた。
人手の足りない地方の討伐隊に、シアのような見習い騎士たちも数合わせとして駆り出された。
村に到着したシアたちが目にしたのは、無惨に踏み荒らされた畑と、壊された家々の残骸だった。
広場には、苦痛に呻く怪我人たちが何人も横たわっていた。
「敵は十五、六人。弓も持っている。まともに戦う訓練を受けた連中だ」
偵察から戻った討伐隊長の声は、酷く硬かった。
このまま夜を越せば、さらに被害が広がるのは目に見えている。
隊長が下した決断は、夜の闇に紛れて敵の根城を奇襲する、夜襲の決行だった。
夜の帳が下り、シアたちは息を潜めて森の奥にある野盗の拠点を包囲した。 心臓がうるさいほどに鳴っていた。手袋をはめた掌は汗でぬるつき、腰の錆びた剣の柄を握る指が、寒さとは違う理由で小刻みに震える。
だが、突入した拠点は、もぬけの殻だった。
「クソ、もぬけの殻か……! 焚き火の跡がまだ温かい」
隊長が地面の灰に触れ、苦渋に満ちた声を絞り出す。
敵はすでに動いている。
しかも、シアたちがここへ向かうルートとは別の、さらに奥の村々を狙って。
「二班に分かれる! 南の集落と、東の街道へ急行しろ。手遅れになる前に見つけ出すんだ!」
シアの属する班は、南側の集落へと走った。
視界の利かない夜の森。
息が上がり、草木が顔を叩く。
泥を蹴る足音がやけに大きく響いて、それだけで恐怖が膨んでいく。
集落の入り口が見え隠れする草むらに差し掛かった、その時だった。
(……あ)
シアの、あの日から鋭くなってしまった五感が、ざわめく木の葉の音の裏側に潜む「刺さるような気配」を捉えた。
言葉にするより早く、身体が硬直する。
「止まれ! 敵だ!」
前方を走っていた先輩騎士の叫びと同時に、暗闇の奥から数条の影が飛び出してきた。村の様子を伺っていた、野盗の斥候たちだ。
「囲め! 一気に叩くぞ!」
騎士団が距離を詰め、闇の中で剣と剣が激しくぶつかり合う。 誰が押しているのかも分からない。
泥と怒号と火花だけが、闇の中でぐちゃぐちゃに混ざっていた。
金属の悲鳴が響く中、シアは必死で闇へ向けて剣を振ったが、敵の顔すらまともに見えない。
どこから刃が飛んでくるか分からない恐怖に、喉の奥が完全に張り付いていた。
そんな、全員の視野が極限まで狭まっていた膠着状態の中、ひどく場違いな音が戦場へ迷い込んだ。
ガタゴトと、のんきな木製の車輪の音が、夜の街道に響いた。
通い慣れた道が、今まさに血の流れる戦場と化しているとは夢にも思っていない村人たちが、収穫を終えた荷馬車を引いて戻ってきたのだ。
松明の光の中に、怯えた表情の老人と、小さな子供の姿が見えた。
「おい、あれを殺れ! 盾にしろ!」
野盗のリーダー格の男が、下卑た怒号を飛ばした。
瞬時に、三人の男が無防備な荷馬車へと向かって、泥水を跳ね上げながら走り出す。
「しまっ――間に合わない!」
騎士団の側から、絶望に満ちた悲鳴が上がった。
位置が悪すぎる。
全員が敵と組み合っており、荷馬車との間には絶望的な距離があった。
誰もが、次の瞬間に訪れる凄惨な光景を覚悟し、目を背けようとした。
その、刹那だった。
(やめて)
シアの頭の中には、それしかなかった。
あの子供が死ぬ。
それだけは、嫌だ。
(助けて――!)
強く願った瞬間。
胸の奥で、あの嫌な跳ね方をした心臓が、冷たい白金の熱となって全身の血管を駆け巡った。
景色だけが、置き去りになった。
一歩を踏み出した感覚すら、なかった。
それなのに、シアの身体は野盗の群れと荷馬車の真ん中へ、「置いて」あった。
敵も、味方も、何が起きたのか理解できず、思考が完全に凍りついていた。
シアの手の中で、あの錆びた鉄の屑が、微かに震えていた。
抜いた記憶はない。
けれど、白銀の刀身が、暗闇の輪郭だけを静かに浮かび上がらせていた。
すべては、すでに終わっていた。
シアの剣先は、先頭を走っていたリーダー格の男の喉皮一枚の手前で、寸分の狂いもなく静止していた。
その背後では、残る二人が、いつ現れたのかも分からない少女を前に、踏み出した姿勢のまま凍りついていた。
男の額から、だらりと一筋の冷たい汗が流れ落ちる。
男の恐怖に染まった瞳が、怯えに引きつったシアの琥珀色の瞳と重なった。
「う……動かないで」
シアの口から漏れ出たのは、冷酷な警告ではなかった。
今にも泣き出しそうな、ただの悲鳴だった。
「動かないで、お願いだから」
彼女の喉がどれほど情けなく震えていようとも、その白銀の刃だけは、まるで石像の手首に固定されているかのように、ピタリと男の喉元を捉えて離さない。
男の膝が、がくがくと折れた。
持っていた斧が、泥の中にベチャリと力なく落ちる。
首領が完全に心を折られたのを見て、戦意を失った残りの野盗たちも、次々とその場に膝をついた。
我に返った騎士たちが、それらを瞬く間に包囲していく。
「お、おい……今の、何だったんだ……?」
背後から、味方の騎士たちの、困惑と恐怖の混ざった呟きが聞こえた。
それは、勝利を称える声ではなかった。
誰も、シアに近づこうとしない。
さっきまで背中を預け合っていた先輩騎士たちが、まるで得体の知れない猛獣の檻を覗き込むような目で、一歩、後ろへ退いた。
老人は咄嗟に、隣にいる小さな子供の目を覆い隠すようにして、じりじりと荷台の影へと後ずさる。
助けられたはずのその目が、何よりも鋭く、シアの胸を突き刺した。 それは、化け物を恐れる目だった。
シアは何も言えず、震える両手で、白銀の剣を鞘に押し込んだ。 カチリ、と静かな音が響く。
途端に、張り詰めていた身体の熱が急速に引いていった。 代わりに襲ってきたのは、酷い吐き気と、芯から凍えるような寒さだった。
泥水の中にポツンと取り残されたまま、シアは自分の掌を見つめた。 手袋越しでも分かるほど、両手はまだ、ガタガタと情けなく震え続けている。
なのに、あの白金の冷たさだけが、皮膚の裏側にべっとりと、消えない染みのようにこびりついていた。




