第2話 見えなかった
あの日から、何かがおかしかった。
雨の日の、あの肌にまとわりつく湿った空気が、シアは昔から大嫌いだった。
なのに、今は違った。
窓の外を乱暴に叩きつける激しい雨の音が、なぜか、妙に静かで、規則正しい旋律のように鼓膜の奥へ滑り込んでくる。
目を閉じれば、雨粒が地面の泥に衝突して弾ける瞬間の形まで、手に取るように分かってしまう気がした。
気味が悪かった。
自分の身体なのに、どこか他人の家に入り込んでしまったような、座りの悪さがずっと消えない。
あの不気味な骨董品店から逃げ出した後、シアは生きるために、王都の末端にある騎士団の「見習い詰所」へと転がり込んだ。
名目上は見習いとして籍を置かれたものの、身寄りも後ろ盾もない孤児に与えられた仕事は、騎士たちの煤けた甲冑を磨き、泥まみれの馬着を洗うことばかりだった。
けれど、あの日から始まった身体の歪みを隠し通すには、その小汚い喧騒の底に紛れるのが一番都合がよかった。
数日ぶりに詰所の雑用から解放された午後、シアは街外れの孤児院の門をくぐった。
「シア姉ちゃんだ!」
門をくぐった瞬間、泥だらけの子供たちが一斉に弾けたような声を上げて駆け寄ってきた。 シアは小さく息を吐き、口元を無理に緩めてみせる。
「ほら、静かに。暴れると何もあげないよ」
懐から取り出したのは、王都の裏通りにある一番安い露店で買った、少し湿気た焼き菓子だ。
なけなしの銅貨が数枚、音を立てて消えていった。これで今週のシアの夕食は、また具のない薄いスープに逆戻りすることが確定した。
それでも、子供たちが大騒ぎしながら菓子を口に放り込む姿を見ているときだけは、あの骨董品店で胸の奥に沈んだ暗い記憶を、忘れられるような気がした。
「シア姉ちゃん、見てて!」
一人の少年が、端切れを丸めて作った手製のまりを思い切り放り投げた。 気まぐれな突風が、まりをあらぬ方向へさらい、孤児院の低い塀の向こうへと落とそうとする。
(あ、落ちる)
そう思った瞬間には、シアの身体は動いていた。
自分でも驚くほど、身体が軽い。
ぬかるんだ地面を蹴ったはずなのに、靴底が泥に沈む感覚すら無い。
まるで地面のほうが、シアの足を“正しい位置”へ運んでいくようだった。
塀のわずか手前で、シアは手を伸ばし、まりを綺麗にキャッチしていた。
「わあ、すごい!」
子供たちが歓声を上げる。
シアはまりを少年に投げ返し、自分の細い足元を怪訝そうに見つめた。 息一つ切れていない。
「……今の、見えなかった」
群れの後ろで、一番小さな女の子が、ぽつりと呟いた。
歓声が、一瞬だけ、奇妙に途切れた。女の子は不思議そうな、どこか怯えたような目で、シアの手元を見つめている。
風の音だけが通り過ぎていく。
「なにいってんだよ、ほら、次は俺の番!」
すぐに別の少年が騒ぎ立て、空気はいつもの喧騒へと戻っていった。だが、シアの指先だけが、冷たく強張ったままだった。
子供たちは何も気づいていない。
けれど、あの一瞬の静寂が、シアの胸の奥をじわりと浸食していく。 誰かに見られてはいけない気がした。
この奇妙な何かを知られたら、もうここにはいられない。そんな恐怖が、じっとりと背中を濡らした。
翌日の居残り稽古で、その違和感は恐怖へと変わった。
「おい、シア! 足元が留守だぞ!」
荒々しい声と共に、先輩騎士の木剣が頭上から容赦なく振り下ろされる。 いつもなら、避けることすらできずに顔面へ落ちてくる木剣。
だが、その瞬間。
頭の奥に、直接「線」が引かれた。
木剣が落ちる軌道が、見えた。
どこへ半歩ずれれば、かすりもしないかまで。
身体が、勝手に駆動した。
シアの意志とは無関係に、筋肉も骨格も、ミリ単位の狂いすらなく正しい位置へ滑っていく。
風を切り裂いて落ちてきた先輩の木剣は、シアの鼻先、わずか数ミリの空間を虚しく通り抜けていった。
「……あ?」
先輩騎士の動きが止まった。
驚愕と、わずかな不気味さが混ざった視線がシアに注がれる。
「いまの、は……」
シアは弁解の言葉を紡ごうとしたが、喉が引きつって音にならなかった。
それはシアの技術でも、速度でもなかった。
腰にある、ただの錆びついた鉄の屑に、身体を内側から無理やり操られたように感じた。
これを先輩たちに知られたら、ここにも居られなくなる。
雑用しかできない「邪魔者」としてすら、置いてはもらえなくなる。
自分のような人間が、こんな力を持ってはいけないのだ。
自分の肉体が、自分以外の何かに書き換えられていくような恐怖が、指先から這い上がってきた。




