第1話 錆びた剣
雨は、王都の最底辺にある路地を、容赦なく灰色に塗り潰していた。
「おい、邪魔だ。そこ退きな」
パン屋の裏口から吐き捨てられた声に、シアは小さく肩を竦め、軒下から這い出るようにして冷たい雨の中へ足を踏み出した。 泥水が、底の割れた靴に容赦なく染み込んでくる。 まだ十五にも満たない少女の身体は、とっくに冷え切っていた。
(……お腹空いたな。あったかいスープ、飲みたい)
激しさを増す雨を避けるようにして、シアは路地の最奥、ひび割れた漆喰の壁に挟まれた小さな骨董品店の店先へと滑り込んだ。
ガラス窓の向こう、薄暗い店の片隅に、それはあった。
錆びついた、一振りの剣。
雑多なガラクタや錆びた歯車の山に埋もれるようにして立て掛けられたそれは、刀身のあちこちが爆ぜるように赤黒く剥がれ、まるで深い裂傷を負っているかのように見えた。 鞘はひび割れ、生気はない。ただの戦禍の残骸だった。
(……痛そう。)
そう思った瞬間。
ドクン、と。胸の奥で、心臓が嫌な跳ね方をした。
(……え? なに、これ)
足が、勝手に動いていた。シアは吸い寄せられるように、店の扉を押し開けた。
カラン、と力ない鈴の音が響く。 その瞬間、世界から音が消えた。
外はあれほどの豪雨だというのに、雨音が妙に遠い。 棚に並ぶ古い置き時計は、どれも途中で針が折れたまま止まっていた。 肌にまとわりつく空気の重さ。淀んだ空気だけが、妙に冷たかった。
無関心に帳簿をめくっていた店主が、入ってきたシアを一瞬だけ一瞥したが、すぐに興味を失ったように目を戻した。
気づけば、シアはその剣の前に立っていた。 近づくほどに、胸の鼓動は痛いほどに激しくなっていく。それは恐怖じゃない。喉の奥が、焼けるように乾いた。
(触れては、いけない。絶対、だめだ。怒られる)
頭の奥が、必死に警告していた。これに触れたら、戻れない。 心臓は今すぐここから逃げ出そうと脈打つのに、指先一つ、後ろへ動かせない。けれど彼女は、その錆びついた鉄の痛々しさを放っておくことができなかった。
シアは息を詰め、そっと、その柄へ指先を触れさせた。
――その瞬間、世界が裏返った。
悲鳴になる前に、喉が潰れた。息が、抜ける。何かが、自分という人間の内側へ、土足で無理やり侵入してくる。
脳髄に直接、泥流のような記憶が流れ込んでくる。
燃え盛る大地。視界が赤に染まる。誰かの腕が飛ぶ。泥の中で、まだ動いている指が見えた。誰も、それを拾わなかった。
その、引き裂かれる世界の中心に、彼はいた。
黒い軍旗が、冷酷に翻っている。 男の周囲だけ、音がなかった。肉の裂ける音も。大地の咆哮も。何も届いていないみたいだった。ただ、静かだった。
その目には、何もなかった。崩れる世界も。死んでいく兵士も。 その男だけが、崩れゆく世界から切り離されたように、そこに立っていた。
(怖い――いやだ、離して)
シアの魂は、その男の感情のない目に、未来の決定的な破滅を幻視し、文字通り凍りついていた。
「ひっ……!?」
ガタタッ、と激しい音を立てて椅子が倒れた。 店主の手から帳簿が滑り落ち、床へバラバラと散らばる。シアの意識を強引に現実へと引き戻したのは、店主の裏返った悲鳴だった。
「お、お前、何を――」
シアは激しく息を吐き出しながら、床に膝を突いた。手の中には、あの錆びた剣があった。
いや、もはやそれは鉄の屑ではなかった。 刀身の錆は内側から剥がれ落ち、白金の刀身が、薄暗い店内を白く照らし出していた。
ハァ、ハァ、と、シアは柄を握りしめ、震える呼吸を繰り返した。 鼻水が垂れそうになって、袖で慌てて拭う。 彼女自身は、何も変わっていない。ただの、行き場のない、怯えた少女のままだ。
店主の顔から、一瞬で血の気が引いていく。
「化け、物……」
店主は壁に背を叩きつけ、ブルブルと震えていた。もう、孤児を見る目ではなかった。
(違う。私は、何も――)
シアは、恐怖に満ちた店主の視線から逃げるように、剣を抱きしめて店を飛び出した。
泥を跳ね上げながら数歩走った、その時だった。
王都を叩きつけていた激しい雨が―― まるで舞台の幕が下りるように、ピタリと止んだ。
雲の切れ間から、冷たい陽光が路地に差し込む。 遠く、大聖堂の方向から、時刻を告げる鐘の音が、重苦しく響いた。
通りを歩いていた街人の数人が、足を止めた。 泥まみれで白銀の剣を抱えた少女を振り返り――そして、一歩、無言で後ずさった。 その拒絶の動きを見た瞬間、シアは理由もなく、息が詰まった。
やめてくれ。こっちを見るな。
シアは剣を強く抱きしめ、泥水を蹴って走り出した。




