第22話:それでも、あの娘はまた来た
翌朝も、王都は冷たい霧に包まれていた。
全身を苛む筋肉痛と、泥を掴み続けた指先のひび割れが、容赦なくシアに現実を突きつける。それでも彼女は、昨夜と寸分違わぬ時間に、プリンスローズを腰に下げて王宮を出た。
シアに対する拒絶の冷たさは、昨日と同じだった。
今日向かったのは、独立派の気勢が特に強かった東側の職人街だった。建物の被害はさらに酷く、焼け焦げた木材と崩れたレンガが路地を塞いでいる。
シアが姿を現した瞬間、瓦礫を拾い集めていた男たちが嫌悪の視線を向け、ペッと地面に唾を吐いて立ち去った。開いた窓から覗いていた女は激しく窓の鎧戸を閉めた。
「偽善者が。長官の椅子から落ちたくせに、今さら何をしに来た」
通りすがりの若い男が、すれ違いざまに低く吐き捨てていく。
その言葉が突き刺さっても、シアは足を止めなかった。誰もいなくなった路地の真ん中で、ぽつんと残された巨大な梁に手をかけ、力を込めて動かし始めた。
救う方法も、エルやネアルコ、民衆を納得させる答えも、シアには何一つ出せない。 ただ、昨日あのパン屋の老人が流した涙が、胸の奥でずっと疼いている。
だから今日も、身体は勝手に動いていた。
朝から始めた作業が昼を過ぎる頃。
遠くの路地の角から、小さな影がこちらをじっと見つめていた。あの幼い子供だった。母親に手を引かれながらも何度も振り返り、泥まみれで瓦礫を運ぶシアの姿を注視し続けている。
さらに、王宮の文官たちが数人、職務のために通りかかった。彼らはシアの姿を認めるとピタリと足を止めた。
「……まだ、やっているのか」
一人が、呆れたような声でぽつりと呟く。
彼らは、シアがもう姿を見せることはないと思っていた。それなのに、昨日と変わらず泥にまみれている。その事実は、彼らの常識を静かに揺さぶり始めていた。
午後になり、シアが崩れた外壁のレンガを一人で一つずつ運んでいた時、一人の帝国兵が通りかかった。
シアは身構えた。 兵士は何も言わず、数歩離れた場所へ並々と水の入った木桶を無造作に置く。
去り際、ほんの一瞬だけシアへ視線を向ける。 それだけだった。
規律正しい足取りのまま、兵士は何事もなかったように歩き去っていった。
好かれたわけではない。許されたわけでもない。 ただ、世界はシアをどう扱えばよいのか分からないまま、その視線を彼女に固定し始めていた。
気づけば、空は茜色から薄闇へと移り変わろうとしていた。
職人街の端にある半壊した仕立て屋の前で、シアはなおも黙々とレンガの山を退けていた。指先はとうに感覚を失い、生爪が剥がれかけて血が滲んでいる。
その時、建物の奥から煤汚れた毛布を被った一人の老婆が歩み出てきた。
シアは手を止め、おそるおそる老婆を見つめる。また罵倒されるか、帰れと言われるか。無意識に身体を固くした。
老婆は泥まみれのシアを感情の失せた目で見つめ、低くしゃがれた声で言った。
「……そこ積むなら、そっちじゃなくて裏だ」
「え……?」
シアが掠れた声を漏らすと、老婆は崩れた敷居を指差した。
「そっちに積んだら、また崩れて入り口が塞がる。やるなら裏に持っていきな」
感謝の言葉はない。労いもない。ただの作業の指図。
シアは言葉を失った。
長官でもない。 大逆の罪人でもない。 ただ瓦礫を運ぶ一人として、初めて声を掛けられた。
喉の奥が熱くなり、視界が急激に滲む。泣きそうになるのを、シアは奥歯を噛み締めて必死に堪えた。
「……うん」
小さく頷くと、シアは言われた通りに重いレンガを抱え、裏手へと歩き出した。その背中を、老婆は黙って見つめ続けていた。
夜。総督室の大きな執務机の後ろで、エル・シャーリーは手元の報告書に万年筆を走らせていた。
『対象は本日も利益なき労働を継続。東側職人街に計七時間以上滞在』
『依然として民衆の信用回復の兆候はなし。見返りとなる条件も発生せず』
そこまでは、完璧な合理の記録だった。 だが、その次の行へ移ろうとした時、エルの万年筆がピタリと止まった。
東側職人街。不穏分子の活動指数が、昨日から目に見えて低下している。 警備を強化したわけでも、配給を行ったわけでもない。怒りが消えたわけでもない。
ただ――あの娘が、泥にまみれてそこにいる。
その一点だけで、民衆が武器を取る手を止めている。
(……なぜだ)
補償も理念もない労働に、社会的な抑止効果など発生するはずがない。
さらに、今日の報告書の最下部には、情報員が捉えた一幕が記されていた。
『対象、一市民(老婆)の指示に従い、瓦礫の廃棄場所を変更。関係性の発生を確認』
エルの眉間が、微かに歪む。
見返りも成果もない。にもかかわらず、関係だけが発生している。
エルの理論体系のどこを探しても、この現象を説明する数式は存在しなかった。
万年筆を握り直す。 しかし、次の一文だけが書けない。
世界で最も冷徹な観測者のなかに、二つ目の「空白」が刻まれた。
翌朝。
シアはまた、重い足を引きずって冷たい霧の中へと歩き出していた。
答えは、まだ何一つ見つからない。
それでも彼女は、プリンスローズを腰に下げ、今日もまた誰も声をかけない街へ歩き出した。




