第21話:誰も声をかけない朝
肌を刺すような寒さではなく、不自然なほど穏やかなぬくもりの中で、シアは目を覚ました。
「……っ、は」
飛び起きようとしたが、全身の筋肉が激痛を訴え、シーツの上に引き戻される。見回すと、そこは王宮の一室――かつて長官として与えられた自室のベッドの上だった。衣服の泥や血は拭き取られ、簡素な寝着に着替えさせられている。
(誰が……私をここまで運んだの?)
帝国兵か。旧王国の生き残りか。それとも、昨日の民衆の誰かか。 考えても答えは出ない。誰も名乗らず、何も伝えてこない。 今のシアは、敵とも味方とも定められない。誰もが触れ方を見失った、正体の分からない異物だった。
ふっと視線を落としたシアは、息を呑んだ。
部屋の隅、壁際に、魔剣・プリンスローズが無造作に立てかけられていた。
誰も没収しようとしない。かといって、丁重に扱われた形跡もない。 「長官の剣」をどう扱えばよいのか、誰にも分からなかったのだろう。 腫れ物のように壁際へ追いやられたその姿は、今のシア自身とよく似ていた。
鞘からわずかに白銀の刃を覗いたシアは、戦慄に指を震わせた。かつて眩いほどの輝きを放っていたはずの刃は、見る影もなく淀んでいる。
以前に感じていた微かな共振は、完全に途絶えていた。 そこにあるのは、重く、錆びついた一振りの剣だけだった。 今の自分が触れてよいのか。もう、この剣を抜く資格さえ失ったのではないか。 そんな恐怖が、シアの胸を締めつけた。
重い身体を引きずり、部屋の外へ出ると、世界の壊れた均衡はさらにシアの心を削り続けた。
すれ違う文官たちは、シアの姿を認めるとピタリと会話を止めた。侍女たちは深く頭を下げたまま、シアが通り過ぎるまで凍りついたように動かない。前方から歩いてきた帝国軍の将校は、シアと目が合うと不自然に視線を逸らして通り過ぎた。
暴動は、ひとまず沈静化していた。 だが、何も解決していない。 誰もが、シアをどう扱えばよいのか分からずにいた。
腰の鞘に戻したプリンスローズは、脳内に答えを語りかけることもなく、ただの重い鉄の塊となって、歩くたびに彼女の脇腹を叩いていた。
「昨日の貴公の行動について、確認したい」
暴動を受けて臨時総督に就任したエル・シャーリーは、総督室の大きな執務机の後ろで平然と顔を上げた。その声は、尋問のようであり、未知の現象を分析する研究者のようでもあった。
「貴公の行動は、帝国の任務に背いている。だが、反乱軍に与したわけでもない」
エルは静かにシアを見据えた。
「双方を敵に回し、自身の生存確率まで捨てた。――何を目的に、あの叫びを上げた?」
シアは、すぐには答えられなかった。 喉の奥が引き攣り、焦点の定まらない視線が、机の上の書類を彷徨う。
長い沈黙の後、ようやく声が漏れた。
「……分からない」
エルの端正な眉が、わずかに動いた。
「本当に、分からないんだ……」
シアは途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「ネアルコたちの言ってることも、間違ってると思った。あのままじゃ、街が壊れるって。……でも、貴方のやろうとしてることも、すごく怖かった」
「私は、誰かが死ぬのも嫌だった。でも……誰かの心が、生きてる意味ごと踏み潰されるのも嫌だった」
シアは自分の胸元を強く握りしめた。
「だから、叫ぶことしかできなかった。……でも、その先を、私は何も持ってない」
悲しげな笑みが、口元に浮かぶ。
「理想もない。代わりに街を救う方法も、何も思いつかない。責任を取れる力もないのに、私は全部を止めた」
シアはうつむいた。
「……たぶん、私は長官失格なんだと思う」
エルは黙って聞いていた。 目の前の少女は、答えを持っていない。 損得も、勝算もなく、ただ流血を止めるために叫んだ。 しかも、その無意味なはずの行動は、結果を生んでいる。
やがてエルは、感情の削ぎ落とされた声で言った。
「……なるほど」
「つまり貴公は、何も持たないまま、あの場に割って入ったわけだ」
シアは答えず、床を見つめ続ける。
「非効率だ。非合理だ。貴公の生存確率も、事態が好転する確率も、皆無に等しかった」
エルは、初めてシアの瞳を正面から捉えた。
「――だが、結果として流血は止まった」
シアが弾かれたように顔を上げる。
「理解はできん。貴公は、帝国の規律にも、旧王国の精神論にも当てはまらない。計算の合わない未知の変数だ」
一拍置き、冷淡に告げた。
「――だが、観測価値はある」
「シア・ロードン。長官としての権限を、一時剥奪する」
シアの顔が強張った。
「だが、拘束はしない」
エルの口元に、笑みとも呼べない微かな歪みが浮かぶ。
「その答えのない足で、この壊れた王都をどう歩くのか。――私が観測する」
長官の権限を剥奪され、たった一人で冷たい朝霧の中を歩いていたシアは、あてもなく王都の裏通りへと向かっていた。
そこは城門前よりも凄惨だった。無残に打ち壊された民家や商店が並んでいる。
シアはある崩壊した建物の前で足を止めた。香ばしいパンの匂いを漂わせていたはずの店は看板がへし折れ、売り物は泥に塗れていた。瓦礫の真ん中で、年老いた店主が虚ろな目で地面に座り込んでいる。
シアはおそるおそる声をかけた。
「……あの」
「……長官、様」
店主の声は震えていた。だがそれは、権力への恐れではない。
「帰ってくれ」
低く、地を幾重にも這うような声だった。
「帰ってくれと言ったんだ!!」
店主が突然、泥まみれのパンをシアの足元に投げつけた。
「お前たちが『正義』だの『秩序』だのと言って城門で睨み合っている間に! 俺たちの店はめちゃくちゃだ! 独立派の奴らは『軍に協力した』と店を壊し、帝国軍は『暴徒を匿った』と家財を没収していった!」
店主は涙をこぼしながら、シアをぶるぶると指差した。
「みんな言ってるぞ、昨日、お前が叫んで軍を止めたってな! 流血を止めた英雄だってな! だけどな……! 止めるのが遅いんだよ!! もっと早くに止めてくれれば、俺の女房は暴徒に踏まれて、起き上がれなくならずに済んだんだ!!」
「あ……」
「今さら来て、可哀想な民を救う優しい長官のつもりか!? 冗談じゃない、お前の顔を見るだけで反吐が出る! 救ってなんか、もらうものか……! お前らの正しさのせいで、俺たちは全部失ったんだ!!」
自分が決断を先延ばしにした代償を、この老人とその妻が払わされている。
シアは衝撃に一歩よろめいた。逃げ出したくて足が震える。だが、シアはぎゅっと自分の拳を握りしめた。爪が皮膚に食い込み、血が滲む。
(嫌だ)
見捨てて逃げるのは、嫌だ。
「……ごめんなさい」
シアは真っ向から店主を見据えた。
「私の判断が遅かった。私が、この店も、おじさんの奥さんも守れなかった。本当に、私のせいです」
シアはゆっくりと膝をつき、泥の中に両手をついた。
「だから、救うなんて言えない。許してくれとも思わない。……でも、私は、ここを動かない。おじさんが私を殴っても、呪ってもいい。だけど、この片付けだけは、私にやらせて。……私は、放っておけない」
「お前……何を言って……」
シアは黙々と手を動かし始めた。店主からの拒絶の中で、彼女は一人泥を掴み続けた。
シアがその場を去ったあと。
戻ってきた老店主は、シアが一人で片付け続けた場所――崩れた瓦礫が退けられ、少しだけ整えられた石畳を見つめて立ち尽くしていた。
「……馬鹿な娘だ」
ボソリと呟いた店主の手には、捨てられずに残された、あの泥まみれのパンが握られていた。
夜。すべての作業を終え、凍える身体を引きずり、シアは自室ではなく報告のため総督室の扉を開いた。
大きな執務机の後ろで、エル・シャーリーはペンを置き、淡々と口を開いた。
「パン屋の修復作業に三時間二十三分滞在。労働効率は低い。貴公の行動は、経済的には無価値だ。一市民の労働力を補填したところで、王都全体の損失には何の影響もない」
エルは泥に汚れたシアの手を見た。
「相手の敵意も解消されていない。信用回復の見返りすらない」
シアは、言葉を失った。自分の迷いも、痛みも、エルにとってはただの観測対象にすぎないのだ。
「理解はできん」
「だが――」
エルは手元の白紙の書類に、万年筆で何かを書き留めた。
「合理性に反したその愚行が、あの区域の民衆の暴動再燃の確率に、微細な低下傾向をもたらした。……ふむ。感情論というノイズが、どのように社会の歯車に作用するのか。引き続き、その足で示してもらう」
シアが静かに総督室を退出した後。
エルは手元の観測記録に万年筆を走らせていた。
『労働時間:三時間二十三分』
『経済効果:皆無』
『区域内の暴動確率:微細な変動を観測――低下傾向』
整然と並ぶ無機質な文字列。しかし、その報告書の最下部で、エルの指先がピタリと止まった。
『――なぜ、任務権限を奪われ、信用回復の見返りもない状況において、対象は逃走を選択しなかったのか』
そこまで書きかけて、エルは小さく息を吐き、万年筆を置いた。 彼の数理モデルのどこを探しても、その問いに適合する解は存在しなかった。 エル・シャーリーの冷徹な記録に、初めて答えのない空白が生まれた。
翌朝。
シアは再び、重い足を引きずって別の路地を歩いていた。
前方から、小さな子供が歩いてきた。昨日、泥を掻き出していたシアを遠くから見ていた子供だった。子供はシアの姿を認めると、びくりと足を止め、怖がりながらもじっと見つめてきた。その瞳には、微かな好奇心が滲んでいた。
背後から母親が駆け寄り、子供を抱き寄せて足早に去っていく。
何も解決していない。誰もシアを許してはいない。世界はまだ、不気味に壊れたままだった。
それでもシアは、沈黙したままのプリンスローズを握り直した。
答えは、まだどこにもない。
それでも彼女は、自分の足で、再び壊れた街へと歩き出した。




