第23話:そして、あの娘は何度でも来る
ドナテロ帝国が敷いた鉄の規律も、旧王国が遺した怨嗟の残り火も、関係なかった。
それでも、その少女はまた来た。
三日目、四日目――一週間が経っても、シア・ロードンは王都の瓦礫の中にいた。衣服は泥と煤に汚れ、長官としての端正な面影は失われつつある。それでも彼女は、毎朝同じ時間に王宮を出て、プリンスローズを脇腹に揺らしながら、ただ黙々と重い石を運び、路地を掃き清め続けていた。
世界は彼女を応援しなかった。民衆は相変わらず彼女を「地位から転落した偽善者」と呼び、気味悪がり、遠巻きに見ていた。
それでも、何かが静かに変わり始めていた。
それは、シア自身が全く意図しない「伝播」だった。
その日、シアが中央広場へ続く崩壊したアーケードで、折れた木柱を一人で引き剥がそうとしていた時のことだ。視線を感じて顔を上げると、数歩離れた瓦礫の山に、あの幼い子供がいた。
子供は小さな両手で、自分の頭ほどの大きさのレンガを一つ、ヨイショと抱え上げ、シアの真似をして不器用な足取りで運び始めた。
シアの心臓が、恐怖で跳ね上がった。
「だ、ダメだよ……っ!」
シアは木柱を放り出し、慌てて子供に駆け寄った。その泥だらけの両手を突き出し、触れることすら躊躇いながら、必死に声を絞り出す。
「危ないから、そんなの持っちゃダメ! 汚いし、崩れてきたら怪我をする。早くお母さんのところへ戻って!」
子供はレンガを抱えたまま、不思議そうに小さな首を傾げた。その大きな瞳が、まっすぐにシアを射抜く。
「でも……お姉ちゃん、やってるよ?」
「――っ」
シアは、息を呑んだまま言葉を失った。
頭を強く殴られたような衝撃だった。ただ、「目の前の一人の人間が、毎日泥まみれで何かを運んでいる」。子供は、その剥き出しの行動だけを見て、真似をしていた。
自分が正しいという確信なんて、何一つない。これはただの、誰かの涙を見て居ても立ってもいられなくなった、無責任な生理現象に過ぎないはずだった。なのに、その足跡を、誰かが追おうとしている。
(私のせいで、この子まで……)
「伝播する責任」の重みが、シアの細い肩に容赦なくのしかかる。シアが恐怖に唇を震わせたその瞬間、背後から母親が悲鳴のような声を上げて駆け寄り、子供をひったくるように抱き寄せた。
「この子まで、あなたみたいにしないで!!」
母親はシアを狂人でも見るかのような目で睨みつけ、子供を抱えて逃げるように去っていった。
シアは一人、泥の中に立ち尽くしていた。ただ、指先の泥だけが冷たかった。そんなつもりではなかった。何も変えるつもりなど、なかったのに。
だが、シアがどれほど拒絶し、怯えようとも、その小さな行動は、本人の意思とは無関係に、王都のあちこちへ波紋を広げ始めていた。
同刻、ドナテロ帝国軍の東側駐屯地。
昼の配給を終えた兵士たちが、防壁の影で声を潜めていた。彼らの間で交わされる会話には、いつもの冷徹な規律とは異なる、奇妙な「揺らぎ」が混じっていた。
「……今日もいたぞ。東のアーケードだ。生爪が剥がれて、まともにレンガも持てていない」
「総督はなぜ処刑せん? 命令に背き、独断で軍の作戦を妨害した大逆人だろう。見せしめに首を刎ねれば済む話だ」
「分からん。だが、あいつの前に水桶を置いた奴がいるらしい。誰だ?」
「さあな。だが、憲兵隊が調査しても誰も名乗り出ない。……それだけじゃない。昨日、第三小隊の奴らが、あいつが片付けた路地を、なぜか見回りのルートから外したそうだ。あそこを歩くと、どうにも歩調が狂う、と」
彼らはドナテロ帝国の強固な歯車だった。命じられた通りに殺し、命じられた通りに支配する。
それなのに、上層部からの明確な指示がない「シア・ロードン」という空白を前にして、彼らの演算は空転を始めていた。守るべきか、排除すべきか。その個人の迷いが、匿名性の影に隠れて規律の内部を静かに腐食させている。
その腐食は、帝国の敵であるはずの「反乱軍」にとっても、最悪の劇薬だった。
王都の地下、暗い隠れ家。
集まったネアルコら残党たちの間に、重苦しい沈黙が流れていた。かつてのように、帝国への憎悪を叫ぶ大声はない。
「……昨日、東の職人街に火を入れようとした」
一人の連絡員が、視線を落としたままぼそりと呟いた。
「……で?」
「止められた」
一瞬、部屋の空気が止まる。
「帝国軍にか?」
「違う。……住民だ」
部屋の空気が、凍りついたように静まり返る。
「『あいつが片付けた場所を、また燃やすのか』ってな。そう言って、俺たちの火を消しやがった。……誰も、あの女に感謝なんかしてないはずなのにだ」
彼らにとって、憎悪の対象は明確でなければならなかった。「冷酷な帝国」という絶対の悪があるからこそ、民衆を暴動へと駆り立てられる。
しかし、敵でもない、味方でもない、正義でも革命でもない「ただの足跡」が、民衆の憎悪の導火線を濡らし、彼らの革命シナリオを静かに、確実に空洞化させていた。
あるいは、その歪みの波紋は、王都の境界を越えた場所へも静かに届いていた。
王都郊外、ひっそりと佇む小さな集落。その片隅にある古い教会の薄暗い礼拝堂で、ナスルーラは密偵からの報告書を胸に抱きしめ、小さく息を吐いた。
窓から差し込む冬の光が、亡きヴァルフォード王の一人娘である彼女の姿を白く浮かび上がらせる。まだ十六歳。その容姿には可憐であどけなさが色濃く残るが、その瞳の奥には、過酷な運命に磨かれた強い意志が静かに湛えられていた。
「……シア」
一拍置き、掠れた声が漏れる。
「無事でいてくれたのね……」
かつてシアが王国の親衛隊だった頃、彼女は王女付きの護衛として任命され、二人はまるで本物の姉妹のように密な時間を過ごした仲だった。シアが生きて、あの泥まみれの王都でなお歩いている。その事実が、ナスルーラの胸を震わせ、どうしようもない喜びで満たす。
だが、喜びの直後、少女の顔には王女としての深い影が落ちた。
理念や思想で動く民は、まだ制御できる。だが、“誰かが痛んでいるから、自分も動く”という無自覚な感情の連鎖は、王ですら制御できない。
シアの歩みは、完璧な計算機であるはずの総督エルの内部を狂わせ、民衆の心理の形すら変質させ始めている。世界を侵食するその制御不能な現象を前に、自分はこの先、ヴァルフォードの血を引く者としてどう振る舞えばいいのか。
姉のように慕う彼女の生存を喜びながらも、自分の進むべき霧深い未来に、ナスルーラは一人、冷え切った礼拝堂で深く思い悩むのだった。
夜。総督室の大きな机の前で、シアは頭を垂れていた。
衣服についた泥の匂いが、整えられた室温の中に不躾に広がる。エルは朝と変わらぬ完璧な姿勢で、手元の白紙の書類を見つめていた。その万年筆は、インクを含んだまま、紙の上で静止している。
「報告を」
エルの声は、いつも通り冷たかった。だが、その声音には、自身の理論体系が侵食されていることへの、かすかな、本当に微かな「苛立ち」に似た響きがあった。
「……中央広場のアーケード。木柱を二本、動かして……レンガも、少し……」
シアの声は小さく、掠れていた。彼女の頭の中は、昼間の子供の言葉で満たされていた。自分がここにいるだけで、誰かの行動が変わってしまう。その恐怖が、彼女の足をすくませようとしている。
「私は……何かを変えられる人間じゃない」
シアは、絞り出すように言った。
「誰かを巻き込みたいわけじゃない。正しいことなんて、分かってない。ただ、あのパン屋のおじさんの顔が、頭から離れなくて……だから、やってるだけで……」
言い訳のような、震える本音。
エルは椅子にもたれ、泥に汚れた少女をじっと見つめた。
今日の報告書には、子供が模倣を始めたこと、兵士たちの間に匿名の動揺が広がっていること、反乱軍の活動が空転していることが、すべて数理データとして並んでいる。
どれも、エルが仕掛けた政策ではない。シアが呼びかけたわけでもない。
(利益がない。理念もない。にもかかわらず、世界がこの娘を軸に駆動し始めている)
「……理解不能だな、シア・ロードン」
エルの口から出たのは、冷酷な宣告ではなく、吐き捨てるような声だった。
「貴公というノイズは、我がドナテロ帝国の規律論を、理論体系を、その根底から狂わせている。貴公にその自覚はあるか」
シアは答えなかった。ただ、傷だらけの手をぎゅっと握りしめ、床を見つめ続ける。
「だが――」
エルは万年筆を机に置き、書類を閉じた。その双眸の奥には、未知の現象を前にした、狂気にも似た冷徹な光が宿っていた。
「数式で説明できないからと言って、観測を止める理由は存在しない。ゆけ、元長官。貴公のその無意味な足が、この街をどこまで壊すのか――見届けさせてもらう」
翌朝。
シアはまた、冷たい霧が立ち込める王都の路地へと歩き出していた。
「そんなつもりじゃない」という恐怖を抱えたまま。
それでも彼女は、プリンスローズを握り直し、壊れた世界の真ん中へと、その泥だらけの足を一歩、進めるのだった。




