第19話 歪んだ天秤
「――ヴァルフォードの裏切り者に、正義の鉄槌を!」
ネアルコが吠え、地を蹴った。身に纏う大剣が空気を引き裂き、凄まじい質量となってシアの頭上へと振り下ろされる。
ギィィィィン!!
硬質な金属音が城門前に響き渡り、火花が薄暗い朝を白く照らした。シアは帝国の長官帽を血風に飛ばされながらも、辛うじてその一撃を自らの剣で受け止める。だが、ネアルコの放つ圧倒的な肉体強度に、背後の民衆の熱狂が加勢し、その凄まじい圧力がシアの華奢な身体を容赦なく石畳へと押し込んだ。
「くっ……!」
剣が噛み合う至近距離。ネアルコの燃え盛るような瞳が、うつろに揺れるシアの瞳を真っ向から射抜く。
「長官殿ぉ!随分と素晴らしい『お召し物』じゃないか!王国の至宝とまで謳われた高潔な騎士様が、今やドナテロの黒い泥を喜んで被るとはな!」
「黙れ……!私は、この街の血を流させないために……!」
「血を流させない、だと?笑わせるな!」
ネアルコは力任せにシアの剣を弾き飛ばすと、すぐさま流れるような横薙ぎを繰り出す。シアは辛うじて身を翻して躱すが、風圧だけで軍服の肩口が裂けた。
「お前がやったのは、人が死なない檻を作っただけだ!自分たちの言葉を奪われ、未来を奪われ、ただ帝国の顔色を窺って生きるだけの命に、一体何の価値がある!」
「それは……」
「悲劇の英雄気取りか?お前は戦う覚悟から逃げただけだ!!」
「違う……!」
もう、反論などできなかった。 激昂したネアルコの一撃が、シアのガードを真っ向から叩き割る。衝撃が全身を駆け抜け、シアは無様に石畳の上を転がった。
ネアルコが大剣を天に掲げると、周囲を取り囲む数千の暴徒から、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
「ナスルーラ!」
「ナスルーラ!」
という狂信的な唱和が、再び王都の空を震わせる。
「民を見ろ、シア!彼らは飢えを恐れていない!生かされるくらいなら、自分で死ぬ方を選ぶ!それがお前には分からないのか!」
ネアルコは倒れ伏すシアを見下ろし、大剣を両手で厳かに構え直した。その刃には、ためらいも、容赦もない。
「お前の綺麗事は、ここで終わりだ。――さらばだ、帝国の犬」
迫り来るネアルコの絶対的な一撃。それを受け止めるだけの言葉も、光も、今のシアには残されていなかった。
その時だった。
城内の奥深くから、地鳴りのような鉄甲の擦れる音が響き、すべてを凍りつかせるような、凄まじい「秩序」そのものが濁流となって城門へと押し寄せてきたのは。
ネアルコの大剣がシアの命を断たんと振り下ろされた、まさにその刹那。
ガギィィィィィンッ!!!
鼓膜を鋭く引き裂くような、苛烈な、しかしどこまでも洗練された鋼鉄の衝突音が爆発した。ネアルコの大剣が、軌道を強引にねじ曲げられて石畳へと叩きつけられる。凄まじい衝撃波が走り、ネアルコの体が数歩、力任せに後退させられた。
「……何だと!?」
ネアルコが驚愕に目を見開く。 土煙の向こうから現れたのは、帝国の黒金に染まった軍靴。均整のとれた長剣――「ハイペリオン」を抜き放ち、感情のすべてを削ぎ落としたかのような淡い光を宿す瞳――エル・シャーリーだった。
無駄のない美しさを放つエルの長剣から、陽炎のようなプレッシャーが立ち上っている。エルは倒れ伏すシアを顧みることもせず、ただ一振りの剣として、両者の間に立ち塞がった。
その瞬間、戦場を支配していた「熱狂」が、急速に凍りついていく。 数千の民衆の怒号も、ナスルーラの名を呼ぶ唱和も、エルが放つ絶対的な「死の静寂」によって強引に圧し潰された。彼の纏う空気は、シアを助けにきた優しさなどでは断じてない。ただ「これ以上、均衡を崩すノイズは排除する」という、帝国の無機質な論理そのものだった。
「……チッ、ドナテロの愛玩犬が。これ以上、我らの邪魔をするか!」
ネアルコが忌々しげに大剣を構え直すが、その額には冷や汗が伝っている。エルはそんな反乱の英雄を、冷ややかな眼差しで見下ろした。
「邪魔、か。思い上がるな、反乱分子」
エルの声は、朝の冷気よりも静かに響いた。
「お前が民を煽った翌日、この街には帝国本隊が到着する」
エルは一切の感情を挟まず、事実だけを突きつける。
「その時、お前は民を守れるのか」
ネアルコが息を飲んで沈黙する。
「お前たちがしているのは革命ではない。集団自殺だ」
ネアルコの「尊厳」という大義を言葉短く砕くと、エルは背後に向けて、その氷の視線をわずかに落とした。 石畳に手を突き、うつむいたまま動けないシア。彼女の背中に、エルの声が突き刺さる。
「命だけ救えば平和になる。お前はそう信じた」
静かにシアを見下ろす。
「結果がこれだ」
「……エル……」
シアの喉から、掠れた声が漏れる。
エルという存在そのものが、シアの正義の限界を、これ以上ない残酷さで証明していた。 シアは、ただ言葉を失うことしかできなかった。
エルは静かに、一歩だけ前へ出た。 そのたった一歩の踏み込みが、場全体の空気を完全に支配する。
エルは長剣を正眼に構えた。
「双方、剣を引け」
「……」
「これ以上の均衡の破壊は、帝国への明確な反逆と見なす。――これより先、規律を乱す者は、誰であろうと私がこの場で根絶する」
朝靄の中、エルの剣の微かな共振音だけが、不気味に響いていた。
尊厳のために死すら辞さない、ネアルコの狂熱。 命なき秩序のみを維持する、エルの現実。 自由、秩序、そして正義の狭間で、ただ言葉を失い倒れ伏すシア。
混迷を極める城門前で、歪んだ天秤の針は止まったまま、三人の正義が曇った空の下で鋭く交錯していた。




