第18話 裏切り者
その事件が起きる数日前、帝国の本国にあるエルの執務室には、不穏な空気が満ちていた。
王都ヴァレイドから届く定期報告書。そこに並ぶ無機質な数字や小競り合いの記録から、エルは恐ろしいほどの歪み――破滅へと向かう「均衡の危うさ」を正確に感じ取っていた。
「陛下、ヴァレイドへの訪問をお許しいただきたい。現地に赴き、自らこの目で状況を精査せねば、取り返しのつかない火種を見落とすことになります」
エルの進言に、皇帝は冷厳な、だがすべてを見通すような双眸を向けた。
「我々が与えるのは自由ではない。秩序だ。その均衡を崩すな」
皇帝の冷ややかな、しかし一理ある言葉を胸に刻み、エルは静かに一礼した。彼はその足で、すでに燻りから大火へと変わりつつある王都ヴァレイドへと向かった。
彼が到着する頃に、あの「少女の事故」という最悪の引き金が引かれることも知らずに。
「――城門を開放せよ!」
長官シアの絶叫により、王城の巨大な鉄門が、重苦しい悲鳴を上げて左右に開かれた。
門の向こうには、憎悪の津波となって押し寄せる数千の民衆。シアは護衛の帝国兵をすべて城内に残し、ただ一人、剣を鞘に収めたまま、怒号の飛び交う危険な城門前へと歩み出た。
凄まじい罵声と、殺意すら孕んだ視線の嵐が彼女を襲う。だが、シアは一歩も引かなかった。彼女が今、この命を懸けて伝えたいのは、胸に抱き続けた亡き老王の遺言、そして行方知れぬナスルーラへの至純の思いだけだった。
「聞いてください、ヴァレイドの民よ!」
シアは胸いっぱいに息を吸い込み、凛とした声を響かせた。
「私は、皆さんの命を守るためにここにいます!あの日、陛下は私に『誰も傷つけるな、民を守れ』と命じられました。私はその約束を果たすために、この泥を被って長官を引き受けたのです!皆さんが飢えず、怯えず、安定した暮らしを続けるためなら、私は王国だろうと帝国だろうと関係なく、この身を削って力を尽くすと約束します!だから、どうかこれ以上の争いはやめてください!」
それは彼女の偽らざる本心であり、彼女が保ち続けてきた正義のすべてだった。 しかし、返ってきたのは、シアの胸を容赦なく抉る、地鳴りのような怒りの声だった。
「ふざけるな!帝国の犬が!」
「管理された安定など、本当の安定であるものか!」
「飢えないために、私たちは誇りまで売り渡した覚えはない!」
「帝国兵は出ていけ!」
「私たちのことは、私たち自身が決める!!」
その叫びだけが、何度も何度もシアの胸を打った。 これまで誰からも教えられなかった、人間のあまりにも痛烈な願いだった。
(……違う)
(私は……何も分かっていなかった)
言葉を失い、シアは立ち尽くした。
増えていく犠牲を防ぐことだけが正義だと、信じてきた。 だが民が求めていたのは、ただ生き延びることではない。 自分たちの未来を、自分たち自身で選ぶこと。
(私は、その一番大切なものを見落としていた)
その時、群衆の後方から、一人の男が声を限りに叫んだ。
「――正当なる国王陛下の血筋、ナスルーラ王女殿下万歳!!」
その名は、暴徒たちの心に宿る導火線に一気に火をつけた。
「ナスルーラ様!」
「ナスルーラ王女殿下!」
叫びは瞬く間に民衆の中でこだまのように響き合い、大地を揺るがすほどの、巨大な唱和となって王都の空を支配していく。
(ああ……私では、もう止められない……)
胸を突く圧倒的な無力感。 だが、シアの中に湧き上がったのは、民への怒りではなかった。痛いほどの共感だった。
もし、自分が帝国側の長官という立場にいないのであれば。もし、自分がただの王国騎士のままでいられたなら。自分だって今すぐにでも帝国兵に石を投げつけ、ナスルーラ王女の名前を、声を限りに叫びたかった。
それが絶対に叶わぬ今の自分の立場を、宿命を、シアは心の底から呪った。 彼女は何も言えず、ただ黙ってうつむき、唇を血がにじむほどに噛み締めることしかできなかった。
その時だった。
地平線の彼方から、地響きが響く。 土煙がゆっくりと近づき、やがてその正体が姿を現した。
粗末な野良着を脱ぎ捨て、かつての王国騎士の鎧に身を包んだ反乱軍。 その先頭に立っていたのは、情熱と野心を瞳に宿した若き騎士、ネアルコ・リンドだった。
民衆は王女の名を叫び続ける。 反乱軍はゆっくりと城門へ進む。
その真ん中で、シアだけが静かに立ち尽くしていた。




